日本国ブランド化計画

さて、この「日本国ブランド化計画」は、少子高齢化で大量国債残高の国にとってどういう道しるべがありえるか、を勝手に試論したものです。(2003年ごろ書いたもの)


■1:高付加価値を提供する国家へ


国家単位で有名なジャンルは結構あります。
たとえば、「高級料理といえばフランスだ」「洗練されたファッションだったらイタリアだ」「バレエだったらロシアだ」といったように人々からそこには何か深さがあるというイメージはそれぞれの分野で過去、多くの付加価値を生み出してきた結果です。


別に料理であろうがファッションであろうがどこの国にも優れたシェフ、デザイナーはいます。
しかし、高いところの水が低いところに流れるのと同様に、高い付加価値を生み出した文化、産業は「・・・・だったらXXXだ」というイメージを作ります。
このイメージが「料理を食べに行くなら」「ファッションを学ぶなら」「バレエを見に行くなら」という観光、教育、教養といったところで世界中の人々を集め、「交換」によってお金をもらい、また、そこで新たな料理、ファッション、バレエを深める機会を創るという良い循環をもたらしているのです。


 もちろん、日本にもあります。「自動車だったら日本車だ」「電気製品だったら日本製だ」といったいわゆる、メイド・イン・ジャパンです。しかし、「自動車だったらドイツ車だ」「電気製品だったら中国製で十分だ」という人々も多く、唯一、日本が突出しているといった国家ブランドの一つにまでには課題があります。「自分ならではなもの」で勝負できてないのです。ここが日本経済が次の転換を図る方向性があるのではないか、というのがこの「日本の国家ブランド化」のテーマです。


 マーケティング・コンサルタントの活動においては企業ブランドを創るということがあります。企業の持つイメージを価値として活用していくことがゴールですが、これは大量に広告したり、美しい会社のマークを創ったらいということだけではなかなか辿りつけません。多くの高付加価値の商品を生み出すことがどうしても核になります。
これこそ、その会社が顧客と「交換」している商品自体に「その会社ならではなもの」がより含まれているかどうか、というところが問われるわけです。そして、これは国家に置き換えてもスケールは違えど構造は同じです。「自国ならではなもの」を含んだ産業を多く持つことが国家ブランドとして「・・・・するなら日本だな」「・・・・買うなら日本製だな」「・・・・を楽しむなら日本モノだな」を発生させることになります。
そうなれば指名買いですから価格競争も弱まり、収益も高まります。何より「自分ならでは」というアイデンティティを生かした国家象ですから無理のない、精神衛生も満足度の高い人々の国になります。


■2:日本ブランド化で解決すべき課題たち


ブランド化=高付加価値創造国家です。実はこの高付加価値創造を国家単位にまで引き上げなければいけない状況が存在してます。今、日本人が乗り越えらなくてはいけない環境の3つの「うねり」について考えてみます。


①高齢化社会
②成熟化市場
③グローバル化
④価格戦略の限界


既にいずれもマスコミや評論家がさんざん指摘していることで、言葉自体に目新しさはありません。ただ触れておきたいのは、これらの変化は危機ではなく、ニュートラルなものと言うことです。日本に立ちはだかっている大きな壁であると同時に、日本人を楽にしてくれる「朗報」として読み替えることもできます。


①高齢化社会の意味、体力から知力へ


まず第一の高齢化社会についてですが、これを「若い元気な働き手が頑張って、お年寄りを支える」という高度成長時代そのままの発想でなんとかとしようとしても、すでに限界です。だからといって、高齢者を若者と同じフィールドに立たせるのはもっと無理な話でしょう。それは本当の意味の、高齢者の社会参加ではありません。

では、どうすればいいか。結論からいえば、「体力から知力へ」ということです。日本は依然GDP世界第二位の豊かな国などと言われても、それが国民ひとりひとりの残業と疲弊に頼っていることは、みな実感として持っています。一日十二時間働いても平気だった働き手が少なくなっているのが現実なら、一日八時間でも高い価値が生み出せる社会へと転換していく他に道はないのです。できれば、一日四時間働くだけでも生きていける世界を目指したいのです。


加えて、中国などコスト優位を掲げる国々の経済進出という外的な環境の変化を加速させています。これまでのように「人数×時間」のフィールドで立ち向かったとしても、中国には永遠に勝てないでしょう。「人」という考え方を、量で測るのではなく、質で図ることに変換すれば「人数×価値」に変わります。自分の「固有価値」を見つけ、それを売り込むことに国家も企業も国民一人一人もシフトしていかなくてはいけません。つまり、戦うリング自体を代えるのです。


高齢者にしても、年齢を重ねているからこそ持っているユニークさがあるはずです。
例えば、様々な経験や人付き合いを通じて培った「間合いのとり方」、「空気の読み方」の洗練です。相手が何を考えているかを読みとり、欲しがっているものを探し出すのが早い。
あるいは、ひとつの道を「極めた」ことから生まれる、普遍的な判断力も貴重です。名人上手とまでいかなくても、ある世界で事を成し遂げた人というのは、極めてプロフェッショナルであるがゆえにどの世界にも当てはまる洞察力やノウハウを持っていることがままあります。これは「相手」が本当に欲しいものを知ることに繋がります。すなわち、自分マーケターの素養が備わっている。


当然ですが、こういった高齢者のユニークさは一人一人違います。面白いことに高校生や大学生は「自分の個性を大事にしたい」と言うわりには似通ってしまうのは、スタート地点での進む角度が違っていてもまだまだ歩き出して間がないのでお互いの距離はそれほど開いていない状態だからです。方や、高齢者は生きてきた時間が長いので個々人の相違の幅も広く、「個性」をいう必要がなくなったぐらい差が出ています。ですので、「固有価値」を探すと言ってもその方法もバラバラです。バラバラだから真似できない。真似できないからこそ価値が下がらないのです。高齢者をひとくくりにして考えてしまっては、これまでの「人×時間」の発想と同じです。


②成熟化社会、より多くからより独自へ


先ほど私は、「固有価値」という言葉を使いました。「固有」というのは、自分以外は誰にもないということです。企業でいえば、特許が取れるような技術などが代表例ですし、個人ならば「自分は睫毛の上にマッチが十本乗せられる」といったことだって、立派な固有です。
しかしそれが「価値」かどうかは別の問題です。技術を製品化した商品がお店に並び、それにお金を払う人が現れてはじめて「価値」になります。ですから睫毛にマッチの話は独自ではあるけれど、一般的には価値とは呼べません
(パーティの席に呼ばれて、ちょっとした隠し芸を見せて盛り上げたい時などには価値になるかもしれませんが)。
つまり固有価値と一言でいうものの、まずは自分の中の「固有」と、相手との関係の中での「価値」を分けて考えることが必要です。その上で、両者が一致する接点を探し出すという順番があるわけです。そして、それが選び抜かれた結果、「自分ならではなもの」となるのです。
次に、ここで第二の環境の変化として挙げた「成熟化市場」の話です。
ほかでもなく固有価値をいかに高めていくかが成熟化市場における最も重要なポイントなのです。そして、ひとつの商品から得られる利益を最大限にする。つまり、市場の成熟化を乗り越えていくキーワードは、「より多くからより独自へ」となります。


市場が成熟するということは、必要なものはだいたい行き渡ったという状態からスタートします。ここで消費行動は物理的に一段落するだけでなく、精神的にも一段落します。一息ついたおかげで、売り手に煽られていた生活からは距離を置いて買い物を考えるようにもなれます。必要でないときは買わない、人が持っているからといって買わない、広告をしているからといって買わない、自分が必要だと感じるものだけを必要なときに必要な分だけ買う、以上、終わり。
人々の価値観が、まるで束ねていた紐がほどけるようにバサバサっと散らかって、多様化し始めるのです。ある意味、普通の消費行動になったのかも知れません。
従来のマス・マーケティング(大量生産・大量販売を支える企業活動の仕組み)の方程式が崩れ、ひとつのモノが大ヒットすることはそうありません。たとえヒット商品が出たとしても、あっという間にブームが終息してしまい、生産調整が間に合わずに在庫の山で利益が吹っ飛んだなんて話はいたるところで起きています。


量を追いかけられないのに収益を上げなければいけないとするなら、どうしますか?
そうです、利益率を上げるしかありません。薄利多売の時代が終焉したのです。今思えばいい時代でした。あまりにもいい時代過ぎた過去を捨てるのは誰だって辛いものです。そ
んな「競争相手よりも安く」で戦ってきたほとんど日本の産業にとって、「相手にいかに高く買ってもらえるか」という高付加値創造への戦略シフトは険しい道ですが、避けられない道です。
そうです、問題は既に移っています。「目指すことは決まった。じゃあ、どうすれば進むことができるのか?」に。


③グローバル化、競争激化の視点から市場機会拡大の視点へ


第三の変化は、グローバル化です。新しい波がもたらすものを、競争激化と恐れをなすか、それとも市場の拡大と見てチャンスをうかがうか。ここが勝負の分かれ所です。
変化とはレース場のコーナーのようなものです。道がなくなるのではなく、道が曲がっているために、コース取りによっては大回りをして遅れを取るし、内側に身を置けば一気にトップになれる場所です。徒党を組んで走っていれば風にも当たらず直線距離は快適ですが、いざ、旋回となれば隣の仲間が邪魔で曲がりきれませんね。まずは自分が自分でコントロールできることが変化する場面での大前提です。


グローバル化がもたらすものは、参加できるマーケットがたくさん生まれるともいえます。知らない競争相手が向かってくると同時に、知らない世界で競争にチャレンジできる。有利も不利もない。ただ、今は他のアジア諸国にチャレンジされている状態です。
それなら、今度は日本企業が世界規模で己の上がるリングを見つけ、ファイティングポーズをとる気持ちが大切でしょう。まずは、今まで閉ざされた業界の中で生きてきた日本企業には、まずはそのメンタリティから変えることが求められます。正確にはそこに努めている一人の人間に、です。


④価格戦略という名の戦略不在


今度は内側の課題です。マーケティング・コンサルタントとして問題を感じるのは、「価格戦略」という名の呪縛が解けずに苦しんでいる企業経営のあり方です。90年代バブルがはじけてから誰もが通用しないのじゃないかと危惧しながらも他に方法がないから相変わらず今年も「価格戦略で勝負」という企業が多いのです。
価格戦略とは、競合よりも値段を安くするということです。そのためにあらゆる角度から経費を削り、可能な限り利益率を削る。戦略などと勇ましそうな名前がついているので立派にきこえますが、一言でいえば「薄利多売」となります。


これを可能にしていたのは、次の二つの前提です。


【その1】市場が成長している(量をとれるという目算があるから、単価が下げられる)

【その2】日本企業以外の強敵がいない(業界と言う存在が暗黙の棲み分けを創る)


どちらもお客さんの意見なしにルールが読める、というのがポイントでした。明日が予測できるなら楽を選ぶのは当然です。


さて、こういった状態が続くと、会社の風土はどうなるか? 経営戦略は毎年作られますが、これはあくまでも儀式と言うことになるわけです。分厚い戦略書も読んでも読まなくても来年のことがだいたい想像つくなら、内容には誰も注意を払わないということになります。前述したように、市場規模が伸びているときは、それでも経営がうまくいっているように見えるので、誰も悩みません。
結局、中身(果たして内容がどうかも怪しい限りですが)など飛ばし読みして、目に焼き付けるのは最後のページにある「売上目標」だけ。いつしかその数字が一人歩きして、環境が激変しているのに、経営者がそのときの気分で平然と「前年比プラス何%」といった目標を掲げて社員の尻を叩くだけの思考停止状態の企業が出来上がります。


ところが、国内市場の停滞と中国をはじめとする多くのアジア諸国の経済進出によって、価格戦略を支えていた前提は大きく揺らぎました。生産システムの合理化や人員コストの圧縮などでいくらがんばっても、かなうわけがない階級の違う相手がリングに上がってきているわけです。
但し、付言しておきますが、これは日本オリジナルの悲劇ではなく、繰り返される歴史のひとコマです。かつて我々も欧米企業の生産方式の真似をし、薄利多売で世界市場にうって出て、量が勝負のリングのチャンピオンになりました。その後、日本人がリングから追いやった欧米の企業は別の戦地を探しました。自らの階級にふさわしいリングで試合をするようにしたのです。次が日本の番というのが今のシーンなのです。


■3:高付加価値産業を生み出すということ


ホウレンソウとシクラメンで考える付加価値の形


先日、近くのスーパーにホウレンソウを買いに行ったところ、一束百四十八円でした。ホンレンソウを買ったついでに、生花コーナーに寄ってみると、もうシクラメンが売られていました。値段はだいたい、一鉢二千八百円といったところでした。


どちらも精魂込めて育てたものとは言え、かたや食べてしまうと百五十円。かたや見ていると三千円です。物理的には同じぐらいの葉と茎の数なのに、洗って束ねてまでして百五十円。切ってもいないし土がついたままの方が三千円。当然ながら両者は原価コストが違いますし、実際にはホウレンソウもシクラメンも質や価格に幅があります。シクラメンは色がとても変わっていたり、姿形が立派な大鉢なら一万円以上です。スーパーの方が安いことが分かっていても、わざわざ高級生花店で贈答用に高い鉢を買う人もいます。しかし、どんなに最高品質のホウレンソウでも、一万円の価値までは認めてもらえません。

 
ではみんなが明日からシクラメンを作ればいいかというと、世間はそんな簡単ではありません。花の色が悪ければ、値段が百円とつかないこともあります。市場に出すタイミングを外せば、「陽気もよくなってきたし、もう季節外れだね」と買い叩かれるし、病院の近くで見舞客を相手に商売をしている花屋さんでは「根付きの花は、ウチじゃ要らないよ」とつっかえされてします。
商売は冬場の一発勝負、量を作れば量が売れる訳ではないのですから、いい花を作る努力とどう売るかという思案が重要です。花の好きな人を探したり、花の好きな人を増やすことも大切、行き着くところ知恵の勝負になります。それができれば、三千円でも一万円でも納得して買う人がいるのです。つまり、高付加価値を提供できたということになります。


 先に誤解をといておくと、だからシクラメンがブランドで、ホウレンソウはブランドにはならないという話ではありません。
ホウレンソウは「鉄分が豊富」というユニークさがあるし、「和洋どちらの料理にも合う」という価値が主婦に認められています。また、無農薬栽培を売りにしているもの、朝摘みで鮮度を売りにしているものなど付加価値を武器に「ホウレンソウ買うなら・・・産、・・・・農家のだね」というものもあります。
しかし、シクラメンには、「香りがいい」「花を眺めていると癒される」「贈り物として、季節の風情を相手に届けることができる」といった、もっと膨らませようのある様々な価値があります。さらにホウレンソウと決定的に違うのは、花色の違ういくつもの鉢を、ひとりのお客さんが買って楽しむこともあるということです。ホウレンソウは、買いだめして冷凍保存する人も、後で食べることは変わりません。というわけで、どうやら一言で価値といっても、「食ってナンボ、使ってナンボ」の世界だけではない、別の角度からの価値があることが分かります。


毎冬、数千円の値札のついたシクラメンが店先に並ぶということは、そんな価値の膨らみを認めているお客さんが増えているということです。食べることから、愛(め)でることに重心が移ると価格は10倍以上に跳ね上がるほどの「交換」が生まれます。これに応じたモノゴトを提供する産業が「高付加価値産業」ということです。
今までの話は、それぞれの個人、それぞれの産業が高い付加価値を提供できるようになれば「高付加価値を提供する国家」へと近づいていけるはずだと、私は考えています。
つまり、「ホウレンソウ経済からシクラメン経済へ」ということです。


■4:高付加価値国家のために国ができそうなこと


 「・・・といえば日本だね」、こういった産業が多くできれば高付加価値を創造している国と言えます。少々、物作りに偏っていた嫌いはあるにせよ、メイド・イン・ジャパンは国家のブランド・スローガンとして充分定着してきました。冷静に見てみると家電や自動車など国内で切磋琢磨し、海外に受け入れられてきたものたちです。
その中からは自動車のように例の「自分ならでは習得型」ルートによって付加価値を生み出すゾーンに行き着いたものもあります。


一方で、金融などかなり強い国家指導の産業は苦戦しています。「金融機関なら日本だね」、とは誰も口にしません。国家自体は何か価値を創るということはできないということです。産業を育成することはできないのですが、畑を耕し、産業がのびのびと自生するための環境作りがその役割なのです。間接的でも、その結果は税収となり、教育などへの再投資が可能になるわけです。特にこれだけ財政赤字で四苦八苦の国にとってはとても重要です。


マーケティング・コンサルティングの現場では、常に「今、自分達がどこにいるのか?」を重視します。これに「将来、自分たちはどこに行くべきなのか?」を重ね合わせれば、この二点を結ぶ線がやるべき方向性になるからです。目的が明確でも、どこにいるのかが分からないまま走り出すと、いつのまにか堂々巡りをしていても気づきません。


そこで日本の付加価値国家のゴールを見るために、アブラハム・マスローが提唱した「欲求段階説」という理論で考えてみましょう。


まず人間が所有する基本的な欲求は、「食べたい」、「寝たい」、あるいは異性と結ばれたいといった生理的なものです。それが満たされると、次に求めるのが生活の安全や安定です。
今日食い扶持にありつけたからいいというだけではなく、「明日も明後日も安心して暮らしたい」、「我が家を持ち、貯金をして将来に備えたい」「子供のためにも長生きしたい」。このような欲求が生まれてきます。ピラミッドで考えると、底の部分になります。


考えみれば戦後の日本は、みんな食うや食わずのところから再出発しました。生理的欲求が振り出しだったわけです。そしてやっと高度成長時代に安全欲求を満たす段階に突入し、「マイホームだ」「貯金だ」「終身雇用で将来も安心だ」というところまで安定が得られたのです。日本人が全体としてこの安全への欲求まで到達したのは、若い人たちが想像している以上にごく最近です。
それが満たされると、次は集団に参加したいという欲求が強まります。社会的欲求というやつですねまず食いっぱぐれはないとなれば、「就職するなら、大企業のほうがやりがいがある」とか「いい大学に入れば自分を磨ける」などというように、自分がどこに属し、参画したいかが大きな意味を持ちはじめました。


しかし、振り返るとどうやらこの辺りから欲求段階を上手く登れなくなったような気がします。1970年代後半、私もこの頃、大学受験や就職活動をした身なので痛感するのですが、この段階で先にも指摘した欲求の横滑りが起き始めてしまいました。そうです、グレードが大切になってしまったわけです。何をやりたいかから有名な会社ならどこでも、何を学びたいかから有名な大学ならどこでもといった傾向にずれて行き、「業界くん」「3高男」などという言葉が流行った八十年代あたりをピークにこの社会的欲求が横に膨らんで行きました。


そして、本来であれば次は尊敬の欲求です。「自分の存在価値を人に認められたい」という欲求が高まり、仕事で仲間から認められたい、社会に貢献することで自分を認めてもらいたいと思うわけです。また欧米では、お金を稼ぎ地位も得た人は、慈善事業に精力的です。恵まれない人を助けたいという気持ちがある一方で、「私は人に求められている」ということを確認したい欲求もあるに違いありません。こんな気持ちになれるのも、第3段階までの欲求が満たされているからです。


日本の場合、どうもこの尊敬の欲求の手前で歪んでしまったのか、尊敬の欲求も看板や肩書きで一目置かれるという、「有名会社で管理職は凄い」「有名大学を卒業したのは凄い」といった形だけの尊敬で満足してしまう人が多いのではないでしょうか。


こういう視点から考えてみると日本の場合、多くの段階で問題が起きています。一部の人たちは未だ安全欲求に留まり続けています。そして、一部の日本人はもう社会的欲求が満たされてもいい段階なのに、尊敬の欲求へとスムーズに階段を上がっていけていません。目指すべき究極の自己実現の欲求へは程遠い状態です。それは社会のあちらこちらで見受けられます。必要以上に儲けようとして引き起こされたバブル。必要以上に肩書きを欲しがっての有名大学への入学、一流会社への就職。遂には、必要以上に会社に貢献しようとして起こる過労死。いづれも過剰な安全欲求、過剰な社会的欲求、過剰な尊敬欲求の歪が今なお続いているとは言えないでしょうか。
満たされたはずの欲求に飽きたらず、ピラミッドを登らず、そこで相対的な優位を求めてしまう。
同じ欲求の中で横滑りしているだけです。


欲求を満たすことが悪いのではありません。彼や彼女には欲求の段階が満たされたら本当は心の奥底でもう解決できないものが生まれています。それに向き合わないことが、大きな問題なのです。
自治体のようなもっと広い枠組みで考えても同じです。よく整備された国道と橋一本で十分な交通量なのに、これまでの欲求から抜けられなくて、「我が町も高速道路の通る町になりたい」と横滑りしてしまいます。向こうの町に通って渡ることはもうできたから、本当なら、次は橋の景観や自然にもっと心を配って、釣りの名所にしたり、周囲を便利にして年に一度お祭りを開くなどして、「あの町の橋は余所とは違うね」といわれたいはずなのに、そういったように、欲求がきれいな形で上に上がっていかないように見受けられます。


欲求をもつのが人間ですし、それが完全に満たされる場合も、少ないのが現実です。ならば少なくとも、個人よりは理性の利く集団は社会的欲求の世界から尊敬の欲求の世界へと、段階をスムーズに上がっていってもいいと思います。隣の県に空港ができたなら、ウチにも空港を作ろうではなく、「では、ウチは空から眺めても見えるほどの大きく美しい花畑を持つ公園を作って、隣の空港で降りた人々が『あそこへ行ってみたい』と思わせよう」、そういった気持ちが望まれるのです。その先には、真の「自分のならではなもの」に行き着く「自己実現」の世界があります。それこそが、「高付加価値国家」のゴールとなるものです。


■5:欲求のしなやかなシフトを促す


では、今度は外から見てみましょう。例えばODA(政府開発援助)は相変わらずヒモ付であまり使えない代物を提供すると指摘されています。でも、日本国内の見え方としては「こんないいものはない」という設備などです。これは各国には国の欲求レベルがあり、それを上にあげる手助けこそODAの核、ということを忘れた結果でしょう。


ですから、ODAが先進国から途上国へ何かを提供するものとは限らないはずです。途上国だった時代の日本が、先進国アメリカに行った「ODA」の成功例が、いまもポトマック川の岸辺に美しい花を咲かせる、三千本の桜の木だと私は思います。


この逸話はあまりに有名ですのでごく簡単に紹介しますが、明治時代に当時の東京市長だった尾崎行雄が、日米両国の友好の証として送ったのがこの桜、ソメイヨシノです。ことの発端はワシントンの社交界で活躍していたエリザ・シドモアという女性が、東京・向島の桜にとても感激したことで、その後、彼女が大統領夫人に働きかけて実現させました。


相手に乞われたとはいえ、それは当時の貧しい日本ができる精一杯のプレゼントだったと思います。しかし、その「自分ならではなもの」は他に替えるものがありません。実際には、最初に贈った苗木には害虫がいたため、全部焼却されたのですが、その後また新たに苗木を贈ったのです。桜の木は、いまも日本人に対する彼らのイメージをプラスに働かせる役割を少なからず果たしているでしょう。


身びいきかもしれませんが、フランスがアメリカに贈った自由の女神より、私はポトマック川の桜の方が、価値ある贈り物だったと思います。なぜなら、「このように咲いては散る花を愛でることでの慰撫」という、先進国の欲求が少しでも次にシフトしてくれることが、お互いのメリットに繋がるはずだからです。惜しむらくはこういった行為が途絶え、一部の利害関係を持つ企業のための公的買い上げに変質してしまったことでしょう。


■6:「日本ならではなこと」の源泉を探る


 基本的に自分自身が付加価値を提供できなければ、その集まりのその又集まりである産業も付加価値を生み出すことはありません。当然、その産業の集まりである国家も同様の結果になります。でも、国はその環境整備はできます。これは会社が個人のユニークさを生かそうとする(または,抑えようとする)ことが業績に繋がることと同義です。
 日本がメイド・イン・ジャパンというブランドから次のポジションを目指すとき、国がサポートする「自分ならではな産業」とはどのようなものがあるのでしょうか?


 ここにその前提と思われる主要な三つの条件を示してみました。


①非言語文化からの産業育成


メイド・イン・ジャパンは典型的な物質に拠った付加価値創造のニックネームです。もちろん、今後もこの物作りは大きな「日本ならではもの」の柱でしょう。しかし、高級バッグのデザインや売り場が価値の重要なカギであったように、日本もこの見えない部分をベースに高付加価値を考えなければいけません。つまり、ハード・ウエアからソフト・ウエアへということです。

では、質問です。世界でもっとも豊かな国アメリカで、一番お金を稼いでいるソフトウエアとは何でしょう。マイクロソフト社製のOSではありません。それはほかならぬ、「英語」なのです。
言われてみれば、「なるほど」でしょう。たまたまアメリカに生まれて、ごく普通に二十年近く生きてきた人間がいたとします。彼やまたは彼女には何の資格も技術もなかったとしても、外国に行けば「ネイティブ外国人講師」として、英会話学校で働ける可能性があります。英語ならまずどこの国でも欲しいコミュニケーション・ツールです。生産性というのは投資に対する効率で計りますから、こんな生産性の高いソフトウエアは他にありません。


この事実には、私たち日本人が学ぶことのできる二つの側面があります。
第一に、日本人なら誰もができて当然のことが、提供する相手や場所が変われば価値が生まれるかもしれないということです。それを見つけることができたら、英語ほどの市場規模ではないとしても生産性の高いソフトウエアを手にすることができます。


第二は、そうはいっても「言語」の世界では、既に英語がデファクト・スタンダードを取っているということです。それがもっとも顕著なのがインターネットで、すでにいま英語は、ネット上における事実上の公用語になっています。また学術や文化を見ても、日本語で勝負するということは大きなハンディを背負っていることが明らかです。一方、英語圏から発信される映画や小説などは国際マーケットでは有利に働き、それが、また、英語での表現者を集め、ますます、英語をデファクト・スタンダードとしての地位を高めてくれるわけです。


このように見てくると、どうやら第一のカギは、日本固有の非言語文化にあることが分かります。


②高齢化を生かした産業育成


 高齢化は本当に悪い話なのかどうかは疑問です。高齢化が問題なのは、若いことが原動力となるような仕組みで動いている場合であって、そのままではこれほど国の足を引っ張る現象はないでしょう。高齢化をどう逆手に取っていくか、ここが新しい仕組みの条件です。労働時間で勝負できないことを前提するということを意味します。
 

高齢化とは何でしょうか?
時間の積み重ねがあるということですから「経験が備わっている」ことです。しかし、現代では経験は決して良い意味だけを持ちません。過去に縛られ新しいものを生み出す力に欠けるとみなされているからです。日本の歴史でも革新的な動きがあったときは若い人々のエネルギーがありました。
 「過去を生かす世界」「過去を乗り越えていく世界」と二種類存在します。高齢者はインターネットの分野では活躍しにくいのはインターネットという新しい世界はまさに「過去を乗り越えていく世界」だからです。ここで無理してパソコンに習熟(これ自体は良いことですが)し、その産業に貢献しようとしても付加価値を生み出すのは辛いことです。早くリタイアしたいと思うのも無理ありません。


 では、「過去を生かす世界」にはどのようなものがあるか? それは欲求をコントロールしていく力ではないでしょうか? 高齢になればなるほど自分の人生の長さが分かり、それを身の丈に安全欲求から社会的欲求、尊敬への欲求へと移ることが考えられる。これこそ、先進国で必要な知恵です。
歳をとるほど高付加価値創造ジーサン、高付加価値創造バーサンになる。そして、そうなることこそ皆の目指すゴールになっている国は明日を迎えることに期待が持てる精神的にも素敵な国家像です。
また、これらの産業化はお年寄りの活性化のためであると同時に、日本の活性化のためでもあります。


さらには、工場を次々と海外に移している日本の大企業が、これからずっと日本に本社を構えて、莫大な法人税を払ってくれる保証はありません。
キレイ事でなく、稼げる人には稼いでもらわなくては、もう日本の将来は本当にありません。いまの日本は、人口比率的にも個人資産の豊かさからも大きなボリュームゾーンとなる高齢者層を、消費のマーケットとしては有望視しています。しかし、実はもっと肝心の、生産のマーケットとして生かそうという視点が不可欠になってきています。


③モノからワザへの産業育成


 「自分ならでは習熟型」ルートの代表例としてトヨタ自動車を挙げさせてもらいました。トヨタ自動車が提供するものは自動車というモノそのものですから、この産業で利益を上げているトヨタはまさにモノ作りのプロ集団と言えます。でも、過去は普通の会社だったトヨタが誰も真似のできないものに変身したのはカンバン方式などに代表されるオリジナリティあるノウハウであり、まさに集団経営のワザ作りだったのです。


 ワザ作りの奥義とは「極める」ことと「あうん」です。


極めるという言葉には求道的なニュアンスが含まれ、よく言えば実践における研鑽を重んじるということですが、近視眼的な課題解決にこだわっている印象もあります。
極めることは、それ自体が楽しいことです。さらに日本人は、与えられた課題に対して工夫を凝らすことには優秀との自負もあります。そのためか、日本人は「極める楽しさ」に溺れてしまうことがあるようです。溺れるとはどういうことかといえば、価値を交換する相手との関係を見失い、スペックそのものを高めることが自己目的化することです。ここが唯一の欠点ですが、最終ゴールである「他人が真似できないもの、そのものになる」ということです。
この日本人の「極め」のメンタリティの奥には、「禅」の思想のようなものがあるかもしれません。曹洞宗の開祖、道元は、修行とは瞑想や難行などではなく、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(歩く、立つ、座る、寝る)つまり日常にあるといいました。


特に、既存の大量生産型産業が極めを発揮するのは、前にもお話した通り「数をこなしている」からです。何気ないことでも、その中で極めていこうという意志があれば、
問題点や修正点に気づきます。工業地帯の小さな工場でもその道何十年の人が旋盤の音を聞いただけで、コンマ何ミリという差異を聞き分けたりできるのも一つの「極める」です。
個人による経験の蓄積を、固有の英知にまで高めることが「極め」でした。
そして、これを集団の極意にしたものこそ、「あうんの呼吸」のような言葉にできない一体感です。
集団の全員が「あうん」で結ばれている、それができれば、彼らは余人をもって置き換えることのできない、固有集団と言えます。いい部品を集めるのではなく、いい部品が何ともいえない予定調和の元に完成品を作る。「なんとなくこの製品はタッチが違う」、そんな感じこそ、努力だけでは行き着けない世界です。まさに、中国などの価格で勝負の競争とは次元を変えた証です。


経験というものが、私たちにもたらす大きな力は、応用力です。人生において、まったく同じ問題はふりかかることはそうありません。しかし、様々経験は解決策をみつけるヒントをくれます。
例えば討論をするときも、相手の顔色をみながら「ここまで言ったらヤバいな」というのが分かるのが、「もういいかげん、いい歳の大人」です。若者は経験がないので、お互いのどちらがキレるかしか目安がなかったりして、下手をすればケンカになります。
 こういった応用力は、経験ぬきのマニュアルでは伝えられません。応用力がひとつの意識として共有され、ひとりひとりの関係に「あうんの呼吸」が生まれた時、それは集団を超えた集団として、状態そのものが高付加価値となります。


■7:オススメの国家ブランド資産


まずは「折り紙」です。そして少々習熟期間や資本が必要ですが、「盆栽」、「生け花」、「お茶」なども候補リストに挙げられます。


折り紙なんてただの遊技じゃないかという人も、それがユニークな遊び、つまり固有な面白さがあることは認めると思います。既に世界ではマイナーながら評価を受けている折り紙は宝石の原石です。なぜなら、それほど苦労なく、高付加価値産業に変身してくれる土壌を備えているからです。日本人がホームステイ先の子供に鶴を折ってみせたら、ことのほか喜ばれたというエピソードは枚挙にいとまがありません。後は、その価値を明確に認めてもらうための仕組みが必要です。


未だ、遊びの域を出ない折り紙ですが、世界に広げるためにはよりオフィシャルな基盤を持たせてあげること、例えば、「国際オリガミ連盟」の設立、公正公的な権威をもつ「オリガミ・アワード」、「オリガミ・コンペティション」を開催し、折り紙文化を世界に広めるなどなどです。こういった、オフィシャル化は特定の文化を広げるときには非常に重要です。
フォーミュラーカーレースのF1と、世界ラリー選手権WRCは、誰もが憧れと尊敬を感じる特別なモータースポーツです。それはなぜかといえば、国際自動車連盟(FIA)が規定している最高位のワールドチャンピオンシップが、この二つだけだからです。


同時に、「折り紙の都は日本」というメッセージを送り出すことで、総本山としての日本が成立します。これはフランスが映画を自国の「文化商品」として重要な位置づけを与え、カンヌ映画祭をその戦略の核としているのに近い手法です。フランス映画がグランプリを受賞しなくても、世界最高の賞を与える権威として君臨することで役割を果たしているのです。
このオリガミ・プロジェクトの勝算として挙げられるひとつのポイントは、日本がオリジンということです。
建築を学ぶ人はローマに留学しますし、クラシック音楽を学ぶ人はウイーンです。「オリジン」というのは、それだけで価値があるのです。なぜなら、人は何か異文化を学ぼうというとき、目に見える技術だけでなく、その背後にある国の歴史や風土、人間の生活もふくめて理解したいからです。


これは「盆栽」などでも同様に適用でします。例えば埼玉県たいたま市に、盆栽町という町があります。ユニークな町名の由来は、関東大震災で被災した本郷・団子坂の盆栽業者が移り住んだことです。開村当時は、在住の心得なるものがあり「盆栽を十鉢以上もつこと」「門戸は開放すること」など、なかなか変わっている、まさに固有の村の掟があったそうです。
町には今も十軒以上の盆栽園があり、毎年5月に開かれる大盆栽祭には好事家が全国から訪れます。このような独自性のある町ですから、住民は年配の方に限らず若い人も盆材を身近に感じて暮らしているはずです。


盆栽町は名前のユニークさからあくまでも一例として挙げたものですが、盆栽とゆかりの深い地域に国立の盆栽大学、または農業大学の盆栽学科を設立したらどうでしょう。国内の園芸家はもちろん、日本文化や盆栽に興味をもつ海外の人にも門戸を開けるわけです。そこを世界のガーデニング学との文化交流にすると同時に、「BONSAI」という日本ブランドの情報発進の核となります。
これは盆栽を観光資源として町をおこすという、従来的な地域振興プランとは違います。いきなり高付加価値ゾーンで勝負をかけるのです。町に歓迎の幟を立てたり、どこの観光地にもあるお土産屋を誘致して、せっかくの盆栽という固有価値の絞り込みを甘くするようなことはしません。


何をするかというと、本当に盆栽を学びたい人を相手に、歴史が積み重ねた知識とノウハウを提供します。それをコアにしながら、これから町をどうしたいのかは住民自身が考えていく。観光地という一過性のレベルでなく、固有の伝統の上に地域の将来像を自我レベルで描いていくのです。
「西にはイギリスのガーデニング、東にはニッポンのボンサイ」を築ければ世界中から人々が集まるだけでなく、多くの日本人も教師として各国で厚遇されることになるはずです。もしこのような試みが国や自治体と住民の協力さえあれば、高い成功の可能性が十分にあるはずです。
共通しているのは、非言語文化でありながら、高齢者が率先して価値を提供でき(かつ、体力の負荷がなく)、ワザが効いているものということになります。英語圏の持つ英語教育という産業は「教える」だけでしたが、折り紙や盆栽には教育以外にも、道具の普及や完成品自体の流通も含めて、産業としての裾野は広いでしょう。


次に、科学技術サイドではどのような未来産業が考えられるか、です。
この道筋は日本の産業が最も得意としてきたものです。日本人はオリジナリティが弱いとか言われていました(今もそういう人もいます)が、個人によって創る以外に集団をもって独自性を生み出すというまったく新しいやり方が存在することを証明しました。
自動車をはじめとする生産現場の創意工夫を体系化し、価値を生み出す集団のワザ開発です。なぜ、こういったものが日本で発生したのでしょうか?


 「日本はひとりひとりの顔が見えない同質社会だ。もっと個性を伸ばせ」
「欧米には、いきいきとした個があるから、柔軟な発想が生まれる。出る杭が打たれる社会の風潮を改めないと、国際社会で異質な能力を発揮できる国に変革できない」
日本が個性で勝負できる社会になるための障壁としてしばしば指摘されるのが、この「日本人の同質性」という問題でした。この問題は日本の教育制度のあり方や、江戸300年の鎖国制度で身に付いた島国根性なとど論旨が安易に結びつきやすく、欠点と思いながらも短期間での変化は不可能な日本人の性だという認識もされています。


しかし、いまは悪者扱いされている日本人の同質は、国際的な観点からみれば、非常に希有な「異質」でした。皮肉なことに、同質という名の異質を武器にして、日本の高度経済成長は可能になったといえます。


いうまでもなく日本の進むべき道は、異質社会の方向です。同質であることが大いに価値を生んだ大量生産産業では、世界でもう勝ち目がなくなっているのですから。しかし、集団として異質を生み出す同質さ、分かりやすく言えばチームを大切にし、チームらしい勝ち方にこだわる。この一連の「強み」まで捨てることはないのです。
特にこの習得型ルートは、「どこの国でもやってるね」という事業が続けていくうちに「あの国でしかできないね」に変質してしまうことで高付加価値を生み、一つのブランドになってしまうやり方です。(トヨタのカンバン方式など)


集団の強みを生かすというより、比較的欧米などが苦手とするチームで個性化を突くというのがポイントです。
現実のマーケティング活動でも、自分たちに「強み」がなければ相手の「弱み」、つまり苦手なことをひたすらやりぬくことで、相手のミスを誘うというのがあります。
 

その提案のひとつが「ハイブリッド」です。
 例えば、宇宙開発とナノテクノロジーの融合。ナノテクという微小なスケールでの生産技術を宇宙開発に活用するということです。。極小を目指すといった「極め」の研究は、爪の先でしかボタンが押せないほどにケータイを小さくしてしまう日本人の気質にあっていそうです。また一方で、アメリカを頂点とすれば、残念ながら有人飛行もままならない日本の宇宙開発も、このナノテクノロジーとのハイブリッド化で、ロケットって、もっと小さくすれば燃料も材料も少なくて済むし、中に積む人工衛星にしても、超小型化したものを大量に積べば失敗のリスクも軽減できるかも知れません。
 何よりもこういった複数の最先端技術を融合し、まったく進化させるには人的な融合が必要です。つまり、集団で創る「自分ならではなもの」なわけです。ここに日本人のメンタリティに合ったチームで勝ちを目指すというところに一致するわけです。これは同時に、相手の弱みですから、当然、時間が稼げる、イコール、改善などの創意工夫の習熟で差をつけることができます。


 ハイブリッドは組み合わせですから、アンコとパンを組み合わせてアンパン、とんかつと味噌でミソカツといった調子で、無尽蔵に存在します。
 比較的進んでいるロボット工学も海洋開発で海底の探索などに応用すれば、潜水艦は不要で、海岸からロボットが歩いて現場とを往復できるような離れ業だって可能かも知れないのです。


■8:国家ブランド化を支える個人


とは言え・・・
コンサルティングの仕事を通じて高付加価値とはなにか、を考え、教え、実践している身としては、「結局、一人の人間の芯から湧き上がってくるようなものがなければ、そんなものは絶対にありえない」というところに行き着きます。


国が、会社がと言っているうちは、付加価値どころか、足を引っ張っている存在なのです。
何か凄いことに挑戦しよう、などと言うことではなく、もっと、「自分ならではなもの」に近づこうとして生きているかどうかだけなのです。
それは回りまわって、多くの人々に影響を与え、最後には国家、ひいては世界に価値を提供することになるからです。
 

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