ボーダーレスの流れにあるときの身の処し方

世間を幾重にも区切っていた境界線(ボーダー)が低くなっていく現象であるボーダーレスの影響下では、内と外という概念があまり意味をもたなくなります。むしろ、外が内を内が外を補完したり、代替したりするのが日常化していきます。「世界ー国家ー国民」、「市場ー会社ー社員」、といった「環境ー組織ーメンバー」それぞれの間にある「-」の太さが細くなってきているということです。


もちろん、これは主にインターネットによって情報が偏在できなくなっているために加速している現象です。組織は存在してますし、そこにある階層も普段通りにあります。ただ、境界線が弱まっていくために、従来の恒常性の維持(生物に例えるならホメオスタシス:Homeostasis)に混乱が生じてきているように見えます。もちろん、私見ですのである一面を切り取っているだけです。ただ、この「どういった視点を持つか」が個々人が生きていくうえで大切となる人生観に繋がっていることは間違いありません。


さて、ボーダーレスの流れと書きましたが、現実世界では大きく2つの現象があるのではと感じています。一つは、まさにボーダーレスを進行させようとしている潮流です。オープン化によって従来の組織がメルトダウンしていく(させられていく?)力です。ナメクジ(旧来の組織像)に塩(大量の情報とその情報が結晶化する世界、AIはその一つ)。そして、もう一つはこの動きに抗おうという流れです。


ボーダーレスの勢いを食い止めようとする、もう少し優しく言うと、不可避な潮流の勢いを少しでも弱めようとする力でしょうかね。国家や会社などの境界線に盛り土をすることで流出流入による混乱を最小限にする活動です。意外とこの力は大きいのです。既存の組織ですから過去から蓄積した資産も大きいので、それを投入するとヒト・モノ・カネ的にも目立ちます。まるでトレンドのようにも見えます。


例えば、大きな会社はボーダーレス化によって参入障壁が低くなる市場で新たな競争関係にさらされます。昔からの大きな会社同士の一騎打ちではなく、どこに競争相手がいるか特定できないほど小さくてすばしっこい会社が対象となり、市場が虫食い状態になっていきます。ジリ貧ですな。もちろん、ボーダーレスの恩恵で参入できたはずの気の利いた小さい会社も同様の原理が働いて、すぐに他の競争相手に淘汰されてしまうこともおきます。全部じゃないけどね。


余談になりますが、グローバル化は一見、ボーダーレスと同じ方向の動きのようですが、大きな組織が境界線を維持するために肥大化する現象ですから、実のところボーダーレスの潮流に抵抗するパワーだったりします。いわば、万里の長城のような壮大な盛り土。


このように全ての組織はその組織自体を本能的に維持しようとします。ところが、難しくなると判断したなら今度は一転して守備範囲を狭め、境界線強化を集中度で応じようとします。三の丸は捨てても本丸は死守するみたいな? 営利団体で言えば、本丸以外は派遣社員で対応したものの、マーケティング機能を一層強化する場面では社内人材が枯渇し、外部のコンサルタント(例えば私とか?)を取り込むことで、手薄になりつつある二の丸、三の丸の境界線を高めようなどと考えるようになります。


皮肉なのは、ボーダーレスの潮流の端にいるフリーランスのコンサルタントが阻止派に取り込まれていくという状況ですかね。まさに内と外の境界線がなくなっていく状態が生む新たな市場。


まぁ、こんな乱世というかグダグダ感が強まってきた世界ともなると、先ほどの「-」で見る求心力が弱まった中にいる個人も、当然ながら二つの道を選ぶことになります。一つは「より本丸へ」。そうです、中心に向かって身の置き場を探していく動きです。より安全(主観的な安全。果たしてこれが客観的に安全かどうかは不問)と思われるのは境界から最も離れた場所です。既存の階層的組織では権力の高まる位置と中心点は同義なので出世ですね。より偉いポジションを目指せ!が旗頭となります。


他方、それはオープンな世界で身を立てていく方向です。いったん、境界線が林立するところから離れて、自らが小さな組織を立てたり、個人を単位としたりして、低くなりゆく境界の潮流を利用しながら世界や市場を目端を利かせて漂っていく生き方です。より誰もいないポジションを探せ!が座右の銘です。


こうやって見ると、まるで2つの流れが相反する方向に作用するため、人々を引き裂くように見えます。混ざり合う渦の中で働いていたりすると、もう迷子になりそうです。でも、実は境界線は無尽蔵にあり、またどこにでも創ることができるのです。それも簡単に。


そもそも境界ってなんなんだろうか?


境界があるということは内と外の違いを意識することにほかなりません。学歴、会社、国籍、などなど、貴方が他者と自分を区分けする重要な属性だと思えば思うほどボーダーが存在します。重要と思わなければ消えます。つまり、意識させてしまう存在がボーダーになります。ですから、ボーダーレスは意識が低くなる方向へ、反ボーダーレス化はそれに抗う意識が高まることでボーダーを強化しようとする現象と言えます。


で、まずはボーダーという境界線そのものについて。


空港や駅の待合室などで、ひょんなことから見知らぬ隣の人と話し始めることってありますよね。たわいのない話しの中で、相手がメチャ有名な組織の幹部クラスの人だと分かったとき、急に自分の口調が変わってしまいませんか? 自分はしょっちゅうです。肩書きから相手と自分の間にボーダーを引いてしまうことでできた非対称な関係ですね。「あなた偉い人、私そうでもない人」の分岐ということになりそうですけど、単に、こちら側が勝手に意識して作った「人意的な線」なのです。


まず、この「人意的な線」というのがキモです。最初は誰かが引いた線でも、みんながその線を意識し始め、何度も境界線の名を耳にしたり、語ってみたりすると、どんどんその線がまるで以前からある山や湖の物理的な存在のように、私たちの前に見えるかのごとく立ち現れてくるのです。あなたも私もボーダー作りに加担しています。共犯関係なのです。


学歴で考えてみましょうか。あたなが「東大が日本の大学の頂点」だと知ったのはいつですかね。生まれてすぐに? 小学校ぐらい? 高校ぐらい? 進学の話しに触れるたびに、東大というボーダーが意識され、徐々にそこに境界線を見るようになったのではないでしょうか。「ハーバードが世界の大学の頂点」(本当かどうかは知らないけどw)というイメージに至っては最近ではないですか。いつのまにかハーバード出身ですとか言われると、凄いですね!とか脊髄反射してしまうのも、明らかに人意的なのです。


これまた余談。「もう東大(ハーバードでもいいけど)は、たいしたことない!」とか誰かにディスられると、境界線を意識している内側の人ほど、安定しているはずのボーダーが振動して、その不快感にムカッときます。当然です。まぁ、ディスる人も強烈に外側から境界線を意識していますけどねw。こちらも境界線が気になってしょうがない訳です。そうやって、やり取りがあればあるほど境界線は生き生きとした盛り土になって、ボーダーが強化されていきます。人々からの羨望、嫉妬もボーダーに貢献しているのです。そして、この延長線上にある大型版がナショナリズムってわけですね。


私たちの頭の中を幾重にも区分けする境界線には以下のような特徴があります。


1) 境界線は人の意識、人意的であること。
「いい大学を出て、いい会社に勤めることは、いい生活」のような惹句が、市民権を得るぐらい流布する現象は私たちが支えている


2) 境界線ごとに濃度が異なること。
人意が集まれば集まるほど、累積すればするほど境界線は色が濃くなり、遠くからも目立つようになっていく。加速度的に人意を集め易いため、境界の輪郭で括られる面積は大きくなる。最終的には、その境界線自体に気がつけないほど空気のような存在=棄却できないものになる。


「会社の名刺を出すたび、会社勤務を褒められるたび、会社の悪口を聞くたび」会社への帰属が濃い境界線になる。境界内にいる誇らしさは、そこからの離脱の難しさを同時に生む。


3) 境界線内には独自の文脈ができやすいこと
境界線が濃くなれば内側からのコントロールしやすくなるので、内と外での情報の非対称を起こすことができる。この頻度が起きるほど境界は高くなる。出入りがしにくくなって、ますます情報の非対称、内側だけの文脈と論理が域内流通する。


「社内での出世パターンを知れば知るほど、会社自体の悪口を同僚とすればするほど」内側から眺める会社が世界の全てに見えてくる。境界線は水平線であり、その向こうは誰も帰ってこれない崖になっている。


自分の場合もサラリーマンを15年ぐらいやったので、いつの間にか、勤務している会社側と外側の間にボーダーラインを勝手に感じて生きてしまった(育ってしまった?)クチです。ですから、年数を経るに沿って境界線がどんどん高くなって、いざ会社を辞めて独立しようと思った時、内面からの抵抗感はメチャありました。


「この境界線を越えていいのか、自分?。」という、まるで責め苦のようなものを振り切るのにはかなりエネルギーが必要だったのです。はたから見れば、滑稽な一人芝居ですけど、本人にとっては生き死に匹敵するような出来事だったのです。まぁ、今だから言えるのではあるがw


上記の特徴から眺めるなら、この世界が精巧で緻密な天然の絵画ではなく、単なるホワイトボードに書かれた手書きの線だらけなのが分かります。ただ、みんな(自分も含め)が何度も上塗りして書いたマーカーの線なのでちょっと固化していて拭き取るのに手間がかかるというだけなのです。濡れ雑巾で丁寧に拭いてやれば、まっさらな白板でしかないのです。


さて、境界線の消し方・書き方をリフレーミングという考え方で説明します


一般的にはリフレーミングという単語はNLP(神経言語プログラミング)などで使われるものです。心理療法の一種だったりします。


構造としては同じです。枠組みを再設定するのでリ・フレーム・ingで、リフレーミングなのです。実は、マーケティング活動においてもかなり重要なツールなのです。マーケティング戦略を構築する主要な3要素にセグメンテーション(S)、ターゲティング(T)、ポジショニング(P)、三つまとめてSTPというものがあります。


この3要素は実務としては結構扱いが厄介なのです。なぜかというと抽象度が高くて、戦略の後に戦術を繋げる時、段差が大きいために問題を起こしやすい欠点があります。まぁ、欠点というよりは宿命と言った方がいいでしょうかね。なぜならSTPの作業も「捨てる」という作業に沿っている大切なプロセスですからね。


で、分かりにくいまま突っ走っても行動にブレが生じるだけですから、コンサルタントとしてはちょっとサポート・ツールで戦略と戦術の間を地ならししたくなるのです。ここで出てくる1ツールがリフレーミングです。ちなみにSTPとの関係から、他にもプロファイリング(ペルソナですね)、ラダリング(価値連鎖)が同列でツールになります。


マーケティング戦略 → サポートツール
セグメンテーション → リフレーミング
ターゲティング → プロファイリング(ペルソナ)
ポジショニング → ラダリング


・・・こんな関係になっています。気になる方は拙著「マーケティングの基本」でw。自分にとってリフレーミングはもっとも身近なツールでして、もし次にビジネス書を書くなら「リフレーミング入門」か!、というほどです。さすがに部数が見込めないから、きっとないと思うけどねw


少し有名な例でいくと、スターバックスの「サードプレイス」という概念もリフレーミングされたものです。単にプレミアム系でリラックスできるカフェであればまだまだ抽象度が高く、ブランドを展開していく際にブレが出やすい訳ですけど、サードプレイス=自宅と職場・学校に次ぐ第三の居場所、というフレームを与えると俄然、やるべきことに安定感が出ます。図書館に見えるカフェ、公園に見えるカフェ、というふうにブランドが目指す活動にまで昇華されます。


ポイントは、サードプレイスという単語を支えているのは自宅・職場(学校)という周囲を固める比較対象となる単語だということです。それも通常のカフェを規定する時には使わないような単語であり、ゆえに、枠組みが再設定された感じになるわけです。


個人のリフレーミング例であれば、みうらじゅん氏の「一人電通」という呼称もそれに近いですね。xxxライターとかxxxプランナーとか単独で自らの立ち位置を説明すると、誰もが持っているライターやプランナーへの先入観の枠の中に入っていくことになります。


ここでは、電通という巨大広告代理店を真逆の比較対象に持ってくることで、常に何かユニークなものを発信し、市民権を得るためのコミュニケーション活動をしている独自の存在に見えていくことになります。ただし、電通といった外部から調達する単語にはそのものが持つノイズのようなものがあります。よって、昨今の評判が微妙に本人にマイナスの影響を与えてしまうこともありますね。どんなツールにも欠点はあるのです。


リフレーミングは、成熟している市場や皆んなの固定観念が揺るぎない(と信じている)世界であればあるほど有効です。はっきり言って、ボーダーレス化はリフレーミング化とほぼ同義といっていいのではないかとさえ思っています。ただ、意図的な部分よりも自然発生的な部分が大きいいだけ。


では応用編で。


自分の住んでいる松本市をお題にしてみます。松本市は、三つの「ガク都」(「岳都」「楽都」「学都」)をまちづくりのコンセプトにしてます。


以下HPより
<北アルプスなどの山岳観光都市の「岳都」、セイジ・オザワ松本フェスティバルに代表される「楽都」、そして、日本で最も古い小学校の一つとされる旧開智学校の開校や旧制松本高等学校の誘致など、教育を重んずる文化芸術の息づく「学都」です。>


ってことらしいです。これも3方向を訴求し、優先順位らしきものを提示しているので戦略っていう扱いができます。しかし、残念ながら現状をトレースしただけのスローガンなので、具体的な活動(戦術)に落とすには抽象度が高すぎます。勝手にですが、これを自分なりにリフレーミングしてみます。


「岳都」もそのままでは山の近くにある都市の一つになってしまいます。山だけなら富士山の麓の街(富士市とか三島市)の方がよっぽど「岳都」なのです。で、こういった埋没を避けるためにも再規定で新たなボーダーを引いてみます。


海の古都・鎌倉、山の古都・松本。なんてリフレーミングすると、松本市が人気の鎌倉市と同列になるわけです。念のための付け加えますが、これはあくまでも目指す方向性を宣言したものに過ぎません。実態はこれからなのです。


「楽都」も音楽文化の度合いが高いのはどう考えても大型都市ですから東京(国内ってことでくくればですけど)ってことになります。弦楽器の工場が多く、鈴木メソードのような背景を持っているので、これらを活用すればユニークな立ち位置が具体化できます。


鍵盤の音楽都市・浜松、弦の音楽都市・松本。なんてリフレーミングすると、ピアノで有名な浜松との対比で、浜松の謳っている世界の音楽都市とリンクされ、新しい場が見えてくることになります。


「学都」に至っては、正直、過去の話だけでして、あとは信州大学があるくらいです。これでさえ、どの地方にも国立大学はあるわけで、つかみどころが出てこないなかなか手ごわいコンセプトです。きっと、韻を踏むために3番目に付け加えてものだろうと想定できますがw


ちょっと強引だが、日本三大学都、仙台・筑波・松本・・・・とかね。他の二つには学都として市民権を得ているであろう地名です。ただ持ってきて並べるだけでも、自称学都から世間から見える形の学都にまでリフレーミングできます。繰り返しますけど、目標の絞り込み作業の一つですから、現状がそうかどうかは不問です。


いずれにせよ、リフレーミングが戦略と戦術の間にあることを知っておくと、使い勝手も最適なものになります。


さて、提案という名の結論です。


ボーダーレス化へこの境界線マーカー(リフレーミング)で、新たな自分の所属を創造する。これが、メルトダウンしていく(ように見えるだけかも)世界と上手く折り合いをつける方法ではないかと思っているわけです。


参照図表


上記の図表には場所の違いと線の種類でマトリックスが示されています。まずは枠を引けるレベルに4つ、「自分のサイトを持つ」「コミュニティを立ち上げる」「独立する」「起業する」。徐々に境界線が太くなるイメージです。


場所の距離も、目視レベル(目だけw)⇨微動レベル(ちょっと動く)⇨協力レベル(サポートとして大きく動く)⇨自立レベル(存在そのものが枠となる)ってな感じで進化します。


境界線が濃くなることが良いというわけではありません。むしろ、これら筆の太さ違いは、今いる自分の立ち位置によって選択が変わっていくと思われます。


もし、あなたが何かの組織(会社でも学校でも)にどっぷり浸かっているのであれば、ボーダーレス化に抗う方向に入る可能性が高そうです。そんな場合、自分のサイトを持つ、コミュニティを主宰する、といった細筆系の線でボーダーを描いておきたいものです。


一方で、あなたが何かの組織での居心地に違和感を感じているのであれば、ボーダーレス化を促す方向に体が向いていそうです。こういった場合、ちょっとした動きではなく、独立する、起業するといった、太筆系の線を準備してください。もちろん、いきなりはムリでしょう。目視・微動・協力といったステップを踏んで行こうとすれば良いのです。


ただし、細筆系で自分を慰撫することに執心してはいけません。あなたがボーダーレスの波に巻き込まれ、所属している組織からスポイルされることを想定しておく必要があります。また、渋々出世して中心部を目指したとしても、辛さは増すばかりで、減ることはないでしょう。太筆一本をお勧めしますw


2017.5.19
(近況報告から加筆修正)

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