興味の重心を自己成長の過程に組み込む

■成長とは「行動を変えること」ではなく「行動が変わること」
自己の成長の発露となるのが行動の変化である。「今」に対して、どのような動きをするのかがその人の成長として証明される。しかし、「行動を変える」はまだ前段階であり、「行動が変わる」段階になって、次の成長ステージに来たな、と呼べる。その道筋には、「興味の重心」が変化する必要がある。
意識的に「興味の重心」を変えることはできるのだろうか?  意識的2できるとしたら、どういったプロセスが望ましいのだろうか? 


スタートは「知識の範囲を変更する」ことを通じて行われるのではないか、そんな仮説から考えてみたい。その延長に「興味の重心」がどのように動くかを考察してみよう。


■知識の構造図
すべての知識は流動的である。ここでは以下のような区分で知識群を区分けしてみる。
新たな造語として興知という単語を組み込んでいる。


未知の世界=知らない知識すべて
既知の世界=知っている知識すべて
関知の世界=知っているだけでなく、必要性を感じ、関心のある知識群
興知の世界=関知しているだけでなく、興味を感じ、常に探索・探究意識のある知識群


知識の重心が変化する(pdf)

包み込むことで影響力のある知識(認知の深さが増す)になっていく関係図とも言える。


■認知という現象=事象発現
まず、未知の世界には何らかの意識が向かなければ取り込まれることはない。つまり、既知にならない。そのためにはなんらかの関心が必要だ。関知の世界が先行し、認知の範囲が手付かずだった未知の世界にまで広がることで固有の事象が起きるのである。事象は記憶となって知識になる。


さて、関知と言っても大きくは二つのタイプがある。受動的と能動的、「仕方なくの関知」と「したくての関知」の両方である。

・受動的な関知 :外からの刺激による関心発生
「習慣的に見ているマス・メディアからの情報」
「会社や仕事から強制的に入る情報」


・能動的な関知 :内からの刺激による関心発生
「旅に出て気がついたもの」
「図書館へ行って手にとった本からの情報」
「友人・知人と話していて気がつかされたこと」


■理知という現象=意味探究
認知のまま知っているという状況だと記憶次第ということになる。また、知識のストックのみでは自分の行動変化まで行きつくことはない。複数の知識が結びついて意味をなす。意味探究なしには、行動に貢献するであろう価値に転換しない。この「価値があるかどうかを判断する段階=理知という現象」を想定してみよう。ここにも二つの流れがある。


・【A】「認知という現象→興知→理知という現象」
 何か知りたいと思っているものを求めていく意味探究 。認知段階で興味のある自分の何かとリンクが自動的に張れているので、理知が効率よく成立する。直線的な知識増幅パターン


「仕事で得意先の人と合い、食事会になった(認知の場)→共通の趣味である鉄道の話で盛り上がる(興知)→新たな鉄道知識の情報入手先を仕入れることができ(理知の場)→次はそれを起点に何かしようと思う(行動)」 


・【B】「認知という現象→関知→興知化→理知という現象」
 たまたま気がついたものに何かを見出す意味探究 にはツール=「質疑でリンクを張る習慣」 が必要となる。円的な広がりからの知識増幅パターン


「仕事で得意先の人と合い、食事会になった(認知の場)→相手の趣味の話になる(関知)→その趣味で将来どうしたいのかという人生論を尋ねる(興知)→自分と趣味の人生論に重ねてみる(理知の場)→次に、新たな視野を生かしてみようと思う(行動)」


このとき「質疑でリンクを張る」ことがなければ、「関知→未知の既知化」となってあとは記憶次第の一つの知識で終わる。 ここに「行動するか、しないか」の前哨戦がある。


■知識の重心が変わること
最終的には、自分の興味こそが欲求の方角を決めるので、その源泉である興知の重心が変われば行動そのものが変わることになる。


よって、同じ人生時間であっても「質問でリンクを張る習慣」の強弱、【B】の有無によって行動の変化に違いが出てしまうのである。同じ知識欲も核となる自分の興知から次の自分へ移行するためのパワーとして活用できるということなのである。


この「質疑でリンクを張る習慣」はむやみな質疑を意味しない。関心のないことに「なぜ、接点がないのだろうか」という 出発点から、どのようにしたら興味の範囲に組み込めるかのヒントを相手から引き出すことが大切なのである。


■読書における「質疑で興知にリンクを張る習慣」
2Wayコミュニケーションだけではなく、読書のような1Wayコミュニケーションいのいてもこの原則は大きく貢献する。著者の文脈の上にある文意も、そこに対する質問があればその時点で自分側の文脈に置き換わっているからである。


その時点で答えはまったく必要ない。質疑ができた時点で、将来のそこに触れるような場面が出た時、自動的に「あの時の疑問」が再起する。ここで初めて臨床事例との付け合わせが可能となり、有用な知識と変換する瞬間なのである。


そのためにも、自分の興知からの質疑を立てておきたいのである。なぜなら、「自分の興味の範囲を背景に持った知識」=「知恵」となる確率が高いからである。読書で入手する知識はその段階では有用無用は不明だが、それを有用に転換できるかどうかは、未知への態度に大きく依存するのである。質疑の単位で記憶しておく習慣こそが、自己成長の勘所となる。


■読書で「仮設検証のリンクを張る習慣」
興知が増えれば、そこでの自分なりの基準、つまり、志向する文脈ができる。これに照らし合わせて、読んでいく本に対して自分なりの仮説を構築していくことが次の段階だ。構築された仮説は本にたいして、また、本の主張は自分の仮説に対して相互の検証をもとめるのである。これによって興知は鍛錬され、知識重心に深みが増す。振り向けば、自分の日々の行動が変化しているのである。


2009.8.10

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