自分を超えるための実践

1)自分を超えるために・・・「ゆらぎ」の欠如がスタート


「ゆらぎ」とは二極対立の物の中を浮遊していると気がついたときに起こる感覚だと思っています。中庸な状態に起こる気分です。極端にならないが、振り子のように揺れている感じです。


例えば、自由と安定。自由は開放感と未来への興奮を与えてくれます。しかし、自由であればあるほどそこは不安定です。不安定だからこそ、選択範囲が広大なわけですが、一旦、不安を感じ始めると恐怖すら感じるようになります。自由を喜びながら、不安定さに慄(おのの)くという「ゆらぎ」


一方、安定は安らぎと今への納得を与えてくれます。でも、不自由がその代償です。四隅を固められているからこそ、ちょっと寄りかかっても足場が崩れることがないわけですが、一旦、不自由を感じ始めると窒息感から逃れられなくなります。安定さに安堵しながら、不自由さを窮屈に思う「ゆらぎ」


さて、「ゆらぎ」が生じるのは中庸の証でして、健全なことだと言えます。しかし、ある局面ではこの「ゆらぎ感」が消滅したかのようになることがあります。環境に適応しすぎ、またはその反対に、環境からの疎外感に染まっている兆候です。


・環境に適応しすぎて、過剰な自信と心地よさが健全な迷いを蹴散らしてしまっている。


・環境に抗いすぎて、過剰な敵対心と疎外感が健全な迷いを霧消させてしまっている。


どちらも肯定と否定の真逆なように見えますが、環境との関係に埋没している点では共通です。「ゆらぎ」を求めるタイミンが来ています。しかし、残念なことに、もっとメタ(上位概念)な自分でなければ、二極対立を俯瞰できるはずもありません。過剰適応も過剰不適応も環境に対して意識が埋没し、凝り固まってしまった状態ですからね。


ですから、常に自分を刷新するというか、現状を再設定する習慣が必要となります。定期的な人生メンテナンスをするわけです。


2)自分を超えるために・・・課題と手法の変更


日々の仕事や生活は課題の集まりみたいなものです。対処の方法を意識的に変える習慣は「ゆらぎ」を生み出す機会となります。課題と手法の組み合わせで見てみましょう。この2項目同士、「新しい課題ー今までの課題」と「新しいやり方ー今までのやり方」を組み合わせると、こんな感じで自分に返ってきます。


・「新しい課題を、新しいやり方で取り組む」→自分を変える
・「新しい課題を、今までのやり方で取り組む」→自分を広げる
・「今までの課題を、今までのやり方で取り組む」→自分を極める
・「今までの課題を、新しいやり方で取り組む」→自分を超える


そして、この最後の「自分を超える」に内包されているのが、「ゆらぎ」というステップなのです。慣れ親しんだやり方を手放すという、自己否定があるからです。そう簡単に越えられないですよね。どうしたって、手っ取り早く、かつ、確実で、皆んなが「いつものやってよ」って思ってるやり方をやめてみるんです。


なぜ、こんなことを? 世界に対して盲点が大きくなってきていることへの処方です。見えてないものを見ようとする・・・、当然、そこには前向きな葛藤と創造的な解決方法が求められます。


・物理的習慣を新しくする→パターン化した時間やお金の使い方を否定して、新しくする。
・感情的習慣を新しくする→パターン化した喜怒哀楽の出方を否定して新しくする。
・思考的習慣を新しくする→パターン化したモノゴトを捕らえる手順を否定して、新しくする。
・意志的習慣を新しくする→パターン化した覚悟の決め所を否定して、新しくする。


同じ人物が同じ課題に取り組みながらも、まったく異なるプロセスを経るがゆえに、「どうしようか?」という葛藤が生まれます。これが「ゆらぎ」です。「ゆらぎ」は、見慣れない風景にあなたを連れて行ってくれます。「自分を超える」ことの一助となるのです。


3)自分を超えるために・・・コミュニティの再構成


個人とコミュニティの関係を意図的に再編して、「ゆらぎ」を作るというもう一つの引き出しがあります。


人間はコミュニティを離れては生きていけません。一人の人間は複数のコミュニティに参画していて、それは規模の大小は問いません。しかし、その中のいくつかは深刻な問題を抱えているように見えますが、何がそうさせているのでしょうか。


コミュニティという抽象的なものを区分けするには、受動的ー能動的の軸で行うことが出来ます。


○完全受動的コミュニティ
・・・オギャーと生まれた時、ほぼ自動的に所属するもの


・家族(親子関係)
・国家(自治体)
・宗教


○受動・能動半々コミュニティ
・・・能動的に選べるが、どこかに属することを強要されるもの


・家族(夫婦関係)
・学校
・会社


○完全能動的コミュニティ
・・・基本的に縁の範囲内で自由に選べ、解消も簡単なもの


・友人
・師弟
・非営利なコミュニティ(ボランティア、勉強会など)


こうやって具体物を並べてみると、昨今の流れは受動的なコミュニティが行き詰っていることが見えてきます。親子関係での事件、自治体の機能不全、宗教の教条主義化などは最たるものです。また、受動・能動半々といえども、離婚率の増加、学校の教育品質低下、会社のリストラなど、コミュニティとしての信用が落ちてきています。


つまり、所属するコミュニティは時間的に劣化する宿命にあるのです。そこでの過剰な適応、過剰な不適応は共に人生リスクであり、無駄に労力を浪費していることになります。確かに、少し昔までは、参画するコミュニティの所属し続けるべきという圧力度が高く、「みんなそうしていた。君も染まれ」みたいな選択肢のなさに耐えていたところがあります。


しかし、時代は流れてます。古い仕組みを補完するように完全能動型コミュニティへ生活の重心が動いているのです。自ら参画する、むしろ、自ら主催するくらいのレベルでコミュニティの構成を、自分の意思で代えていけるのです。「ゆらぎ」を取り込み、人生を中庸に戻すために、過剰に適応・不適応しつつあるコミュニティとの距離を見直します。コミュニティの入れ替えは、自分を超えるための実践に他ならないのです。


そこで提案しているのが、全員が一つのプライベート・コミュニティを主宰し、二つのそれに参加することです。一と二は最低数を示すために使っています。称して「大人になったら宰一参二(さいいつ・さんに)活動」 、個人的に推奨している「ゆらぎ」発生の生活実践の構えです。この手の話題が出ると相手が聞きたいかどうかを問わず、常に推しています!。ぜひ!。


4)自分を越えるために・・・一人創発の壁打ち4種


自分を越えるための補助ステップに創発があります。一人創発は、いまの自分の手持ちの知識を足し上げただけではなんともならない状況を、自分の内側で化学反応を起こさせ、自分になかった世界を垣間見ようという意味を持ちます。つまり、気づけなかった新しさを生み出し、気づく工程です。


しかし、何か新しい考え、アイデアを表現し、実現させようとする時、自分の頭の中だけでは形にしていくのに限界があります。なぜかというと、「思いつく」「描く」「動く」の間には、結構な距離があるからです。最終的に行動に移すには、どうしても「こねる」ステップがそれぞれ必要なのです。


さて、その「こねる」ですが、これには相手が必要となります。広くて固い台の上で「こねる」。この台の役割が相手であり、一連の「こねる」作業こそが壁打ちってやつです。なんらかのヒッティング・パートナーがいることで、自分の考えを打ち合っては、「こねて」いくのです。


自分の場合、思索の壁打ちには4種あります。メモ、対話、読書、散策。もちろん、それぞれ役割があります。


(1)メモ:
紙に思索のキーワードや図表を手書きし、これを眺めては再考したり、熟考したりするものです。自筆に壁打ちします。壁打ちの基本です。ストレートな返しに応えてみます。


(2)対話:
気心の知れた友人に語りながら、相手からの質問や意見で再考したり、熟考したりします。他者への壁打ちです。人間ならではの変化球に反応してみます。


(3)読書:
関連分野の古典などを読みながら、言葉や文章からきっかけをもらいながら、再考したり、熟考したりします。他筆に壁打ちです。 時間を背負った重い球質を受けてみます。


(4)散策:
景観の良い場所を歩きながら、目や耳からの情報に脳を任せて、湧き上がってくる不意のひらめきで、再考したり、熟考したりします。他景に壁打ちとなります。とっさに出てくるボールに応答してみます。


(1)→(2)→(1)→(3)→(1)→(4)→みたいな、(1)のメモ中心に回していくのが一般的ではないかと思います。どんな順番だとしても、こういった壁打ち、相互のリフレクションに思索の進化を期待するわけです。


どうも、アウトプットとインプットの間にある微妙な何かが・・・ズレ、不協和音、違和感とも言えますけど、自分の中で新たな創発をさせる起爆材になるのではないでしょうか。


創発は一人でもできるのです。


2020.10近況報告から編集と加筆

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