ヤスハラ・マーケティング・オフィスの近況

02月27日

月曜日、内勤しています。


大学で教えた消費者行動論の試験の採点中です。枚数もさることながら、問題がシンプルなので、評価に苦慮します。「あなたがコンビニの店長なら、周囲の環境をどう把握するか?」といったテーマだからです。


単語知識より、自分で考えているか、それなりの説得性に向かっているかが重要なので、文章が立派でも行間に思考がにじみ出てないものは「C評価」としています。そうなると、技術点や芸術点ではなく、魂を感じさせるものかといったところに行き着いてしまうため、読み手の能力も試されてしまいます。ええ、採点官も大変です。


■オリンピックから考えるマス・コミュニケーションの動力系


荒川静香さんの金メダルで国民精神衛生上は何とかブレイク・イーブンに持っていくことができたようです。マス・コミも取り合えず何とか報道経費に見合うネタを入手できました。


メディアは日本語で媒体で、マスコミ自体は情報の流通業と規定できます。商売の基本は、安く仕入れて高く売ることですから、情報も発信以前と発信後の落差がポイントになります。つまり、受け手にとっての情報をもらう前ともらった後のギャップが価値と見なされます。マーケティング上の区分けで考えてみましょう。


認知ギャップ=荒川静香さんの金メダル獲得を知らない人に伝える
理解ギャップ=その競技展開と詳細の結果を知らない人に伝える
好意ギャップ=彼女の知られざる苦労と苦難、その克服の道程を知らない人に伝える


これは水力発電所に似ています。ギャップが大きければ大きいほど、ギャップのある人数が多ければ多いほど、発電機は回転します。マスコミはここで得るエネルギーを広告や購読費に変換することで収益を上げます。


オリンピックでは個人の才能と努力と運によって、その頂点が変わります。やはり、皆が感心のある競技で、感銘のあるメダル色が獲得できれば、それが高いダムのような効果を生みます。が、いかんせん、コントロールできません。


また、事故も大規模であれば、早く知らせることに意味が出ますし、謎めいた事件であれば、解説してあげることに価値を感じてもらえます。スポーツでの勝利は、これに人々がその人をより好意的に受け入れたい欲求、好意ギャップまでカバーしてくれる点で、マスコミに取っては有難い慈雨のネタなのです。


ただ、水は一旦流れてしまえばそこで止まってしまい、発電機も停止します。次の恵みの雨はいつ来るか分かりません。そこで、反対のことを意図的に起こします。


好意が高い人に嫌悪の側面を打ち出すことでギャップを作ることです。「すごい人→ひどい人」へ転換させることで、もう一回タービンを回そうとするわけですね。すごい人が市民権を得たときを見計らってのスキャンダル暴露(捏造?)という定石がそれにあたります。


認知ギャップ=ひどい人であることを知らない人に伝える
理解ギャップ=そのひどさの詳細を知らない人に伝える
好意ギャップ=その知られざる悪意と狡さ、その隠蔽ぶりを知らない人に伝える


ちなみに、こういった行為を一方的に責めきれないのは、そういった受け入れが視聴者や読者の根にあるからです。それはWEBの世界でも同じです。


ただ、荒川静香さんの場合はそういう影響を受けにくいとも思えます。彼女のケースがシドニーのマラソン金メダルの高橋尚子さんに似ているからです。それは「多くの人がライブで見ていた」、という経緯です。


ライブと言っても実はこれもメディアを通じてですが、それでも加工度の低さは直接共感を伝達し、人々に深く刺さるものになっているでしょう。(蛇足ながら、オリンピック場所と報道時差はスターの誕生には大きな要素となる、という言い方も出来ます)


これによって受け手と発信元(荒川静香、高橋尚子)の絆は少なからず強くなっていきます。
ですから、その間の存在であるメディアが別のメッセージを新たに伝達させても、「自分は彼女のことを良く知っている」という好意的な態度は変わりにくいのではないでしょうか。


まあ、実際のところは、今後のマスコミ報道を眺めていれば自動的に確かめられることですけど。

02月24日

分かっていたことではありますが、今週は厳しく辛いスケジュールでした。一週間を大学の講義に取られてましたので、諸般全てが詰め込まれたためでしょう。移動も多く、疲れがたまってきてる感じです。


そして、これから今週の最後の予定である月一定例の社長会に、南麻布へ行きます。やっと一息つけそうです。
と、いうことで失礼いたします。


02月19日

13日から17日まで、5日間を立命館アジア太平洋大学(APU)で過ごしました。
以下、ご報告


<湯煙短信>


■別府という栄枯盛衰の地
別府駅からバスで高台にある大学キャンパスへ向かうのだが、これが物寂しい。
その昔、別府は温泉観光の聖地であった。黄金期には人並みで歩けないほどと言う。いまや、往時をしのばせるものはない。湯布院や黒川温泉など周辺には旬な湯治場があるが故に、ますます哀れを誘う街になっている。
通学に使うバスは観光バスを転用したもので、リクライニング機能がついているのだが、乗客が4-5人であればいっそ横に寝そべった方が良さそうである。


この没落は土地の人々に大いなる危機感を与えたのだろう。このまま朽ち果て、寂れ、無に帰してしまうのかと。この表現が大げさでない証こそが山の上にある巨大なキャンパス(バーチャル・ツアー参照)である。
いやはや、山を削った土地から何棟もある建物、そこに至る立派な道路まで、すべてを地元が用意してしまったのである。


■APUキャンパスの幽玄
いくつかの尾根を越えるとこの大学が遠くに見えてくる。
青空を借景に整然とした真新しい校舎がそこにはある。「素晴らしい学びの桃源郷」というのが誰もが漏らす賞賛の言葉であり、「しかし、よーやるよ」が偽りのない心の声であろう。
話を聞くと、その場所は以前、リゾート開発の候補になっていたところらしく、眺望にはひと際優れている。大学生に見晴らしのよい風景は必要なのかどうかは不明だが、キャンパスを出れば広大な原野しかないというロケーションは勉学に相応しい。暇を潰すには授業に出るしかない環境なのである。


谷を隔てた先には自衛隊が演習に使うための土地が広がっている。地元の人に歓迎されないであろう砲弾演習を心置きなくドンパチできる舞台がお隣ということからも、その人外魔境ぶりが分かる。
もし、この大学が経営に失敗したら、自衛隊の兵舎に払い下げるというアイデアがあったのではないだろうか。


■勝負師としての立命館
造るほうも造るほうだが、受けるほうも受けるほうであろう。これだけリスキーなロケーションを箱モノという固定費免除だけを理由に大学経営に乗り出すには、理性を超えた情念なくしては難しいのではないか、そう思える。
しかし、立命館にはどうも独特の勝負勘というか商売センスというものがあるらしく、この他大学から「お手並み拝見ですな」と揶揄されたであろう進出を、ついに「実際に見学させてくれ」と言わせしめたのである。


留学生のための大学を柱にして、日本人学生をその周囲に置くという発想は大胆である。明らかに新セグメントの創造だ。
そして、昨今のアジア進出企業にとっては中国やベトナムからの留学生は垂涎の的になる。
おまけに就職活動のサポートにコア・コンピタンスを持つ立命館大学であれば、ついでに日本人学生もよろしく、というセット販売もしやすいからである。

一週間の授業中も、他の教室では企業説明会がバンバン行われ、今日は何社、明日は何社と会話が飛び交う。
腕章をした担当者はイベント会場のエージェンシーのような素早い動きでこれを仕切っていくのである。


立命館のマーケティング能力は、最近の例では競合である同志社との小学校開校競争にその一端を見せている。
2006年4月に二校が京都で同時に開校するのである。つまり、ガチンコである。
少子化は教育サービスをより年少、または、より社会人へと伸ばすことを余儀なくする。その川上での争いに大手私学が打って出る訳で、戦略性は非常に高い。


両者のスペックを見比べれば分かるが、大きな違いは場所、ロケーションである。
APUで懲りたのかもしれないが、立命館小学校のアクセスは同志社小学校に対し、圧倒的に勝る。親の安心、親の送り迎えなどを考慮に入れてのことらしい。
小学校の選択は保護者が決めるのであれば、これは顕在化されているベネフィットであり、体感品質も明確である。


もちろん、同志社は通学に車での送り迎えができるという逆のメリットもある。ベンツやBMWを乗り付けて一族の栄華をプレゼンテーションできる場があるほうが嬉しい親もいるだろう。


■APU学生気質と内省の関係
今回は履修者が98名(最初は99名)で、最終試験受験者79名という終わり方であった。去年と同じフレームで講義したが、内容は少しバージョンアップさせた。
一日、90分×3コマ=4時間半なので座学ではお互いが持たないため、ワークショップ中心に進める。昨年以上に生徒のレベルがこなれて、収斂し、クラス化してきた感じがする。
発表が積極的なのは、やはり、留学生の上昇志向が全体の空気を作っているからだろう。彼らや彼女らがいなければ日本人学生はここまでの積極性は持てないと思う。

最終日は有志数名と別府で懇親会をする。ベトナムからの生徒二人や去年の受講者などを含め、計9人で居酒屋にて就活やら将来の話を聞く。 大人のアドバイスをしたいところだが、まったく参考にならない生き様の人間がこれからの方々を指南することはできないので、人生の暴れ方、収め方などを一くさりする。


面白かったのは、「田舎にあるので、考える時間がありすぎて休学が多い」という休学経験者の話である。いいのか、こんな自分で、などと悩む機会が多すぎるのは問題を引き起こすと語る。そこまで自己分析できて、何故に休学した?、と聞きたいところである。
風光明媚な別府湾を見下ろし、高原の風に吹かれる毎日では、迷いは溜まる一方で、たまに、遠くから自衛隊が気前良く放つ砲弾の炸裂音が低く聞こえ、やっと、我に返るのか。


若者は考えることも大切だが、考えすぎないことも大切なのだろう。
ホテルの湯船に朝、夕と飽きることなく浸かりながら、ほどほどにそう考えた。

02月10日

今週は隙を見つけては、次週からの大学での「消費者行動論」テキスト及び進行について考え、準備しました。


消費者行動論って、名前からいかがなものかですが、意図の設定に苦慮します。消費者の行動を分解することをゴールとするのか、で、商売はこうすべきまで言及するかと、思わせながら、人間行動学まで昇華させ、勢い、望ましい社会設計を妄想すべきか。つまり、キリのない世界観を前提に語るジャンルになっています。


本来は、消費学と行動学に二分され、そのハイブリッドにして、派生の枝として存在するべきもののような気もします。そうだからこそ、市井のマーケティング・コンサルタントをもって、これを語りせしめるというのは「崇高な学術的根拠を一旦無視し、世俗な商業的根拠でよしとする」とのお墨付きをいただけけているようで、気楽でもあります。


こんなことを蕎麦屋で思いあぐねながら、雑件三題


◆「なぜ、冷たいソバにはワサビで、暖かいソバには唐辛子なのか?」
このように考えるのは、自分が盛りソバでも七味唐辛子を使うから。
ワサビの抗菌作用が冷たいソバの危険度を下げるとすれば、現在の標準的な飲食店の衛生状態から見ればその意義は薄れているのではないだろうか? 


◆「割り箸のための箸置きはどう進化していくか?」
今日のソバ屋には箸置きがなく、自然とその包装紙を折りたたみ、その任にさせたのですが、ならばいっそ、この紙が箸置きに組み立てられるようになればいいとも考えました。また、テーブルのスペース節約に、箸全体を縦に受ける一人用箸立てもどうだろうかなど。進化の余地の大きい(スケールは余りにも小さい)課題です。


◆「ソバ焼酎は蕎麦湯で割るべきか、お湯で割るべきか?」
いいソバ焼酎の香りがその店の蕎麦湯で掻き消されるなら、蕎麦も麦も芋も意味がないような気がします。反対に、一番安い蕎麦焼酎で蕎麦湯こそ通、とも言えそうです。


人が一生に抱える疑問の数は計り知れませんが、かなり平穏な一週間であったことだけは確かなようです(笑)。


02月05日

土曜日は、社内セミナーを予定している会社の展示会にご招待頂き、お台場へ向かいました。


外は卒倒するほど寒く、吹き抜ける海風は強烈で、風邪寸前でした。ビックサイトにいくつものブースが並び、多岐に渡る製品ラインナップをブランド・グループ別に教えていただきました。自社内だけでゼロから新たなブランド構築を統括しているとのことですから、その学びの力も卒倒する熱さです。


今週を総括すると、いくつかの出会いが交錯する中で、成長する人とそうでない人との差はやはり人格なのではないか、ということを感じさせられた一週間です。


勉強は成長に不可欠ですが、その一部でしかなく、それも食事で取る栄養にも似て、特定の知識の偏りでバランスを崩してしまえば体調を悪化させるだけだったりします。でも、そんな成長の道筋は誰も教えてくれないわけですから、うむ、やはり、その人の人格に地図が刻まれているとしか思えません。


成長を欲している人たちと仕事が出来ることほど幸せなことはないですね。いやいや、そういう人たちと出会えることだけでも十分、幸福なことでしょう。


■コミュニケーションのためのスペース


ほぼ一年間、月定例の心理学勉強会に参加し続けています。完璧に自主的な会ですから、自分も何かと願い、会場手配をお手伝いしています。


勉強会などのコミュニティをリアルの場で設定しようとすれば、どこかにスペースを借りなければならない訳です。気のせいか、だんだんスペースが取りにくくなってきています。


品川の区民会館のような場所をいつも利用するのですが、大井町の足の良い場所はあっという間に埋まります。西大井というアクセスがちょっとという方を何とか確保しています。


きっとこの傾向は強まるでしょうね。2007年問題に直結しているのは、会社から大量に吐き出された団塊の世代は昼間どこにたむろするか?、ではないでしょうか。


人はどこかでコミュニティを欲していますから、きっと、こういった勉強会などの同士交流の場は増え、スペース需要も高まるでしょう。。結構、いいビジネスチャンスかもしれません。まあ、少子化で空いた学校が校舎の間貸し業をするかもしれませんけど。


※ちなみに心理学の勉強会は、こちらか、こちら(Mixi)に掲載されます。

02月01日

2月になりました。
今月は立命館アジア太平洋大学の兼任講師ウィークがあります。一週間出張、15コマ連続の講義です。
履修者99人ということで、ワークショップをどのように運営するか思案しています。バレンタインデーをまたぐことで人数が減る(昨年は50人)はずでしたが・・・。
キツイ状況ですが、もし、98人全員がカップルだとしても、最低1名は真摯に講座を選択しているはずですので、前向きに取り組まねばと思っています。
いづれにせよチョコレート持参分は増やすようにします(笑)。


■マス広告の効果


広告が効かなくなってきた、というのを聞き始めてから久しいですね。キャリアや職業柄、広告代理店と直接・間接の付き合いがあります。上から順にDから始まりH,A,T,やJ、そして、Sなどなど。


知人、友人、恩人が多い業界のため、あまり「そうだそうだ」と油を注ぐには忍びないのですが、やはり、そうです(苦笑)。でも正確に言うと、マス・メディアが従来の「何とかしてくれるパワー」を失っただけで、情報を伝達するという意味では広告の役割が否定されているわけではありません。


マス・メディアが弱くなっている理由には、こういう循環図があります。


・受けての都合
【メディアそのものが多様化して、マス・メディアひとつあたりのカバーが落ちる】
インターネットや携帯電話などのマルチ・メディアによって、個人のメディア選択幅は増えました。そして、増え続けています。一人当たりのメディア接触時間が限られているとすれば、自動的にひとつのTV番組、雑誌のメディアへの接触時間は落ちていきます。


・送り手の都合
【広告訴求対象の複雑化によって、少ない情報で広告が成立しない】
成熟化社会は商品の二極分化を促します。あっさり言い切ると、こだわるものと安いものです。こだわり商品は、それなりに情報量が多いのでマス広告の王様だったTV15秒スポットでは伝えきれません。


知名率が高ければそれでいい、といった商品ではないからです。よって、メディア・ミックスでの選択がマス・メディアからシフトを余儀なくされます。
ちなみに安さで勝負の商品は端からマス広告をしません。


・媒体の不都合
【広告収入の減少が内容の質を下げ、それが、視聴者・読者を減らす】
従来、マス・メディアを利用していた広告主がお金を減らせば、マス・メディアは広告料の依存度が高い分だけ、質に影響が出始めます。情報の質が悪化すれば、詰まらなさは加速し、ますます人々は離れていきます。


ただ、これはマス・メディアの課題で、広告代理店の役割と一義ではありません。そういう意味では悲観論ではなく、変革せねばならない進化論と受け取るべきでしょう。


そして、これは広告代理店だけに押し寄せていると言い切れないのです。


こんななぞなぞがあります。
「共産主義国にあって資本主義国にない職業」と、「資本主義国にあって共産主義国にない職業」は何?


答えは、秘密警察と広告代理店。


いずれも情報を扱う職業であり、前者はより詳細に入手し隠蔽する、後者はより詳細に加工し伝播させる。そういう意味ではどちらも情報コントロールをそのドメインにしています。


広告代理店らが大きな渦にぐるぐると吸い込まれつつあるのは、共産主義に勝利したはずの資本主義もその変容を迫られている予兆とも読めます。

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