ヤスハラ・マーケティング・オフィスの近況

07月03日

最近、親子の会話で、子どもが「でも・・・」という始まりで会話をする機会が多くなりました。この原因が自分の口癖にあることに気が付きました。2歳ですから明らかに親の影響です。普段の生活、特に仕事では「でも」、「しかし」といった単語を控えることで、常に相手の文脈を受け入れる会話を心がけていたはずなので、こと自分の子供となると親の文脈優先になっていたわけです。


親が子供をコントロールしたいという欲求は自然なものでしょう。同時に、子どもは独立した存在として成長するのも自然なことなので、コントロールは親からでなく、自らしたいという欲求に置き換わるわけです。


問題は親子の関係図ではなく、そこに親子関係を装う別のコントロール欲求が入り込んでいる点です。実際に、親がコントロールしたいという欲求は、「手っ取り早く次の動きに移りたい」とか「自分の理想に従った動きをしたい」といった相手都合ゼロなことが多いのです。きっと子供からフィーをもらっていればコンサルタントとして異なった応対をしていたと思います(笑)。


人間のヒエラルキー欲求は哺乳類の代表的な本能だと言われています。国家であれ、企業であれ、大なり小なり集団は階層を伴い、コントロールする側とされる側がいる状況を心地よいものとして受け入れる力の源泉がヒエラルキー欲求です。これが集団間の葛藤が起きる時、国家間の緊張、企業間の競争となると、コントロールは強化され、リーダーとよばれる人々は本能的にヒエラルキー欲求に自らをより強くゆだねるようになり、ついには、個に根差した狭い文脈がまさって、集団内全部の広い文脈を受け入れることができなくなります。


こうなると相対的に下部に存在しているコントロールされる側は抑圧という解釈をし始め、行き場のない自分たちのヒエラルキー欲求をルサンチマンに変容させていこことになります。そして、「面倒くさくて手に余る歴史的なサイクル」が繰り返されていくのです。


ということで、子どもの「でも・・・」が常套句にならない対話を意識しようと思っております。

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