ヤスハラ・マーケティング・オフィスの近況

09月21日

雨の松本です。畑の松本一本ネギ(長ネギの種類)の土寄せ・追肥(通っぽい?w)をしなければいけないのですけど、天候と私生活の慌ただしさに(FB参照でw)機会を逸しております。このままですと松本半本ネギとなってしうのでしょうか。


■ボーダーレスの流れにあるときの身の処し方


「ブランディングの基本」のあとがきでも書かせてもらってますが、世間を幾重にも区切っていた境界線(ボーダー)が低くなっていく現象であるボーダーレスの影響下では、内と外という概念があまり意味をもたなくなります。むしろ、外が内を内が外を補完したり、代替したりするのが日常化していきます。「世界ー国家ー国民」、「市場ー会社ー社員」、といった「環境ー組織ーメンバー」それぞれの間にある「-」の太さが細くなってきているということです。


もちろん、これは主にインターネットによって情報が偏在できなくなっているために加速している現象です。組織は存在してますし、そこにある階層も普段通りにあります。ただ、境界線が弱まっていくために、従来の恒常性の維持(生物に例えるならホメオスタシス:Homeostasis)に混乱が生じてきているように見えます。もちろん、私見ですのである一面を切り取っているだけです。ただ、この「どういった視点を持つか」が個々人が生きていくうえで大切となる人生観に繋がっていることは間違いありません。


さて、ボーダーレスの流れと書きましたが、現実世界では大きく2つの現象があるのではと感じています。一つは、まさにボーダーレスを進行させようとしている潮流です。オープン化によって従来の組織がメルトダウンしていく(させられていく?)力です。ナメクジ(旧来の組織像)に塩(大量の情報とその情報が結晶化する世界、AIはその一つ)。そして、もう一つはこの動きに抗おうという流れです。


ボーダーレスの勢いを食い止めようとする、もう少し優しく言うと、不可避な潮流の勢いを少しでも弱めようとする力でしょうかね。国家や会社などの境界線に盛り土をすることで流出流入による混乱を最小限にする活動です。意外とこの力は大きいのです。既存の組織ですから過去から蓄積した資産も大きいので、それを投入するとヒト・モノ・カネ的にも目立ちます。まるでトレンドのようにも見えます。


例えば、大きな会社はボーダーレス化によって参入障壁が低くなる市場で新たな競争関係にさらされます。昔からの大きな会社同士の一騎打ちではなく、どこに競争相手がいるか特定できないほど小さくてすばしっこい会社が対象となり、市場が虫食い状態になっていきます。ジリ貧ですな。もちろん、ボーダーレスの恩恵で参入できたはずの気の利いた小さい会社も同様の原理が働いて、すぐに他の競争相手に淘汰されてしまうこともおきます。全部じゃないけどね。


余談になりますが、グローバル化は一見、ボーダーレスと同じ方向の動きのようですが、大きな組織が境界線を維持するために肥大化する現象ですから、実のところボーダーレスの潮流に抵抗するパワーだったりします。いわば、万里の長城のような壮大な盛り土。


このように全ての組織はその組織自体を本能的に維持しようとします。ところが、難しくなると判断したなら今度は一転して守備範囲を狭め、境界線強化を集中度で応じようとします。三の丸は捨てても本丸は死守するみたいな? 営利団体で言えば、本丸以外は派遣社員で対応したものの、マーケティング機能を一層強化する場面では社内人材が枯渇し、外部のコンサルタント(例えば私とか?)を取り込むことで、手薄になりつつある二の丸、三の丸の境界線を高めようなどと考えるようになります。


皮肉なのは、ボーダーレスの潮流の端にいるフリーランスのコンサルタントが阻止派に取り込まれていくという状況ですかね。まさに内と外の境界線がなくなっていく状態が生む新たな市場。


まぁ、こんな乱世というかグダグダ感が強まってきた世界ともなると、先ほどの「-」で見る求心力が弱まった中にいる個人も、当然ながら二つの道を選ぶことになります。一つは「より本丸へ」。そうです、中心に向かって身の置き場を探していく動きです。より安全(主観的な安全。果たしてこれが客観的に安全かどうかは不問)と思われるのは境界から最も離れた場所です。既存の階層的組織では権力の高まる位置と中心点は同義なので出世ですね。より偉いポジションを目指せ!が旗頭となります。


他方、それはオープンな世界で身を立てていく方向です。いったん、境界線が林立するところから離れて、自らが小さな組織を立てたり、個人を単位としたりして、低くなりゆく境界の潮流を利用しながら世界や市場を目端を利かせて漂っていく生き方です。より誰もいないポジションを探せ!が座右の銘です。


こうやって見ると、まるで2つの流れが相反する方向に作用するため、人々を引き裂くように見えます。混ざり合う渦の中で働いていたりすると、もう迷子になりそうです。でも、実は境界線は無尽蔵にあり、またどこにでも創ることができるのです。それも簡単に。


境界線を高める活動には、外部の手伝いを求めて境界を一旦下げて受け入れるような矛盾するような動きがあったり、また反対に、境界線がないところで組織を立ち上げれば、たとえ小さくとも維持を目的に新たな境界線を作る必要がでてくるので、それを助ける外側にいる人や組織が必要になったり。


で、どうするか・・・と。つまり、境界線を引くマーカーを一本持って世間を渡っていこう!、なんていうノリが処世としてはよろしいのではないかと。このマーカーの使い方(リフレーミング)はまた後日どこかで。


09月07日

9月も昼間は暑い日々となっていますね。去年の今頃にあった初秋の涼しさとは大違いです。それでも近所の産直販売所にはブドウ、梨、リンゴが潤沢に出回っておりまして、普段の食卓用に買い込めるようになりました。信州の果物の季節です。


子供のためにという名目で図書館から借りている絵本の中から、思わず見入るアートな絵本紹介というか、いつか買うかもしれないための備忘録。


大人の目線で鑑賞に堪えうるかどうかを基準にしてまして、ストーリーはさておき派によるチョイスです。小さな子供向けの内容かどうかは一切気にしておりません。まずは眺めよ!ってな感じ。そのうち目も肥えるさw。


「絵本千冊読み聞かせ」(松岡正剛「千夜千冊」の矮小版w)を目標にしてます。選択については、まずは量、その中に質を見出そうという意図です。数えてないけど、現時点でほぼ650冊~700冊ほどかと。あと一年半で千冊を見込んでおります。もう、ここまでくると一種の修行だね。


ネコヅメのよる

町田 尚子 (著)


猫好きでなければ画像化不可能な絵本です。最近出版されたらしいのですが、かなり人気を博すものと予想されます。モチーフの猫は出尽くした感があると思ってましたが、そんなことはないね。編集というか演出というか、切り取り方や並べ方でここまで語れるんですね。「きっと作者はここのページだけを書きたくて、そのためだけに全部を作ったんだな」というほどの一点(一画面か?)集中型の作品です。


チュンチエ―中国のおしょうがつ

ユイ リーチョン (著), チュ チョンリャン (イラスト), 中 由美子 (翻訳)


本当に絵のうまい人は絵本ではひけらかすような筆さばきをしないものです。映画とは言わないまでも、一つの総合芸術を支える部分にすぎないわけですからね。それにしてもこのチュ チョンリャン(上海の人らしい)の抑えた中にも、溢れて出してしまう画力は凄いね。赤の使い方(赤の見せ方か?)が印象的なのは中国ならではなのか、筆者ならではなのかは分からないけど、唸らせます。


みんなうまれる

きくち ちき (著)


一言で言うと画集です。物語はあっても邪魔にならない程度でね、ぐらいの文字たちの立ち位置です。画家が狭い画廊を嫌って、絵本という形式で広く表現を問おうとしているかもしれません。反対のほうから語るなら、それだけ絵画の力量があるということなのでしょう。一度、展覧会で現物を眺めたいものです。


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