ヤスハラ・マーケティング・オフィスの近況

02月13日

昨日は久々の瞑想会。下の子が5ヶ月になって、ちょっとだけ余裕が出てきたので、半年ぶりの坐禅です。松本市街から遠く離れた四賀のお寺で行われる会は、この寒い2月にしては珍しい参加者10名という盛況ぶりw。


高校三年生が初参加してました。終了後のお茶会で、瞑想会によく参加している人たちからアドバイスをください、ってな話になって・・・困ったな。瞑想にアドバイスはもっとも遠い存在なのだが。


「瞑想方法はたくさんありますが、自分は思考を停めることだけに専念しています」と一言だけお伝え(伝わってないと思うけどw)しました。


いずれにせよ、高校3年でお寺の瞑想会に生きるヒントを求めにやってくるというのはなんなんだろう。彼の存在そのものが考案だね。


◾️グリーンマウンテン戦略(使用自由ですw)


ビジネス書で展開される「こうすればうまくいく」理論群はすべて後付けです。あっ、自著も含めて早めに付け加えますけど、良し悪しではなく、そういうものなのです。


なので、「どうすればうまくいくのか?」にあまりにも入れ込んでいる読み手が、無防備にビジネス書で「こうすればうまくいく」理論を参照すると、「そうか、そうだったのか」現象を引き起こして、本来の世界から乖離した環境下で行動をとることになります。結果、あまり期待通りいかないのです。


たとえば、有名なビジネス理論(理論というより思考か?)で「ブルーオーシャン戦略」というのがあります。競合のいない世界をブルーオーシャンとして、競合だらけの過剰な競争世界であるレッドオーシャンに対比さえながら、「こうすればブルーオーシャンができる」という筋立てでまとめられたのがブルーオーシャン戦略です。


ちなみに、自分はこの「ブルーオーシャン戦略」をワークショップ形式で研修にしてほしいというクライアントからの強い要望で、市販された本をベースにグループワーク・セミナーを何度も実施しました。要点が明確で、内容的に優れた本です(ここ重要w)。


しかし、大いなる皮肉は「ブルーオーシャン戦略を実施したとされる事例となっている企業はすべてブルーオーシャン戦略を学んだことがない」のです。なぜなら、本としてまとめ上げられる前に成功したケースだからです。


ということは、もし、あなたがここでブルーオーシャン戦略を学んでしまうと、追いかけたつもりでいる掲載された企業事例とは異なる状況になってしまう可能性があるということです。「私もブルーオーシャン戦略を学びました」はこの時点で、「多くの人が身につけたレッドオーシャン戦略(そもそも戦略とは呼べそうにないけど)」になっているわけです。


さて、この流れで気になるのは、よくあるビジネス書パターンの「私が成功した理由は・・・だからだ。みなさんも・・・を身につければ成功できます」というフォーマットです。確かに内容は事実でしょう(だと思うけど)。ポイントは本人は自分が書いたビジネス書を読むことなく成功しているという背景の事実があることです。自分の本を読んだ後に自分が成功するという経験は、時間の流れから見ても、物理的にできないのです。


著者本人は試行錯誤の末、ビジネスでの成功を掴みました。「こうすればうまくいく」理論が存在しない段階からスタートしているからこそ、新しい「こうすればうまくいく」理論に行き着いたのです。そして、成功した後、その高みから振り返ってみてまとめたものが、ビジネス書として世に広められたのでした。著者の主張は著者の履歴であり、理論や公式らしきものは人生履歴のタイトルなのです。学ぶものでなく、楽しむべきものなのです。


こういったビジネス書は「どうすればうまくいくか?」志向の人が読むのはあまりお勧めしないのです。著者の成功は、理論前の著者もまだ試行錯誤の下で起こったことであり、理論となって公開された後とは異なる状況なのです。少なくとも、読者がなりたいと思っている著者の境遇とは全く異なる環境下に読者自身を置いてしまうからです。


むしろ、ここらへんはこの著者が理論や公式で垣根を作ったブルーオーシャンだから、遅かれ早かれ、みんなが赤く染めていくエリアなんだな、と遠巻きに目視できるが故にありがたいとさえ言えそうです。


実際に読んでメリットが大きい読者がいるとすれば、「うまくいっているがなぜだろう?」というセルフチェックとして利用することができる人です。読むことで行動を模倣するのではなく、今の行動の精度が上がるきっかけにできる人々です。成功のためより、成功に意味を与えるためですかね。成功体験後に今までを眺めることができる方々ということになります。


そこで提案。敢えて、ビジネス書やらの理論や公式らしきものを事前に除けながら商売を立ち上げるのをグリーンマウンテン戦略とよんでみてはどうでしょうか。つまり、手っ取り早くプランニングする魅力的な知識を見ないようにする戦略です。海からも程遠い山、青でも赤でもなく緑、というのがその極端さを象徴しています。成功事例なし、あるとしたら成功した後の自分だけ、という心意気です。


「ねえ、あのビジネス戦略書読んだ?」
「すまん。俺、グリーンマウンテン戦略だから」
・・・とか?


なんか、イノベーターのメンタリティになっちゃったかもw。



北アルプスの2月はどう見てもホワイトマウンテン

02月03日

最寒の月、2月となりました。


先週はインフルエンザにかかりました。先行する娘のA型をもらったようで、予防接種も効きませんでした。今年は効きが良くない年と複数の医者から聞きましたが、言い訳はともかく、家庭内で一週間隔離状態。まぁ、熱が全く出なかったということで、いくらかは和らげる効果はあったとも言えますけど。ただし、採算は取れず(苦笑


◾️教えることのできない死生観を学ぶ


上の子は浄土真宗系のお寺が運営している幼稚園に通っております。我が家は特に宗派を持っておりません。したがって、幼稚園として機能してくれればそれでよいという選択です。さりながら、結果論ではありますが、子供に初期の死生観を提示してくれる場として、かなり有難いチョイスであったように感じております(もちろん、あまたの「?」もありますが)。


親になって教育という視座で痛感するのは、2つの上手く教えられないけど学んで欲しい学びがあるということです。死生観と結婚観です。前者は言語化が難しく、後者は代表性を抽出できない、どちらも学びたい者に学ばせまいとするところがある領域です。


死生観は、すべての生物が生まれ出ずる意味と死して去る意味を持っているという前提に立たねばならず、日々の生活を考えると「めんどくさいお題」です。結婚観も、恋愛衝動と世間慣習だけで所帯を持ってから、あとあと日々の生活に追われる場面で詰問される「学びが後手後手のお題」です。


さて、今回は前者の死生観についてです。


子供が食事の時にいつも「多くの生きとし生けるものに感謝します」と唱えるので、ああそうか、生きる死ぬということの疑義の根源は食事に始まるのだなあ、ここを難しく言わず、感謝をもって対峙していくのは4、5歳の子供にとっても、生き死にへの腑に落ちる折り合いのつけ方かもしれないなあ、そんな感想を持っています。


仏教学者の鈴木大拙が、仏教を学ぶには真宗から入り禅宗へ向かうのが良い、というようなことを書いていました。真宗とは浄土真宗のことです。ここには、禅宗は疑いから出発するが、 真宗は疑わずに信ぜよということから出発する、という意味があります。つまり、合理的な言語操作が十分にできない5歳児にとって、まずはシンプルな祈りを信じること、そして、そこから死生を垣間見ようということに通じる気がするのです。


実は、その人がどういった死生観をもっているか、死生観を普段の生き様に練り込めているかどうか、ビジネスの世界でも重要だったりします。損得の彼岸を見据えている人にはそれなりの死生観らしきものがあり、理性だけでは判断が難しい局面で意思決定をサポートしてくれるようです。


少々長く生きてきたものとして、「この方には何か自らどこかで学び取った死生観があるのでは?」と興味をかきたてられる場面を何度も体感してきました。都度、ぼんやりとでもリアルな死生観を教えてもらってるような感覚があり、学び難いものを学ぶ機会を有難いなあと思うのです。


我が子も(どの子供も全てなのだろうけれど)、死生観を学んだつもりでまた疑念が生まれ、これを繰り返して最期まで生きていくことになるのでしょう。せめて、逃げずに、寄り添うように学びに付き合うことが、教える能力のない父のできることかもしれません。

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