ヤスハラ・マーケティング・オフィスの近況

05月19日

50歳を過ぎて周囲を見渡すと、「人生いろいろ」が語呂の良い慣用句ではなく、冷徹な事実であることが分かります。別に人生ゲームをやって優劣を付けたいわけではないですから、個々の人生評価は差し控えましょう。


しかし、この「人生いろいろ」を面白そうな方角に向かわせる何か、ユニークな生き様を描くために重要な何か、そんな「何か」があると感じています。


◾️勇気学(与太論)


それが勇気の扱いではないかと確信しております。勇気。どんなに才能があっても、勝負勘があっても、不断の努力ができたとしても、人生の分岐、分岐での選択には微量でありながらも不可欠なエッセンスが求められるのです。それが、勇気というやつではないでしょうか。


人生の岐路で、ある選択をしようとするとき(選択をしないという選択も含め)、どうしても最後の最後には「えいゃ!」的な閃光が必要となります。もちろん、枝分かれする角度にも大小があって、勇気の度合いも相応に異なるでしょう。また、命をかけたような勇気さえも勇気とは思わないとか、その逆に、そんな瑣末なことにまで勇気という単語を適用するのか、といった個人差もあります。


でも、勇気が不要という場面はありません。事の大小だけがあるだけです。


映画や漫画に出てくる司令室と呼ばれる空間にあるコントロールパネル。そして、ここに必ずある、あの赤いボタン。回りが黄色と黒のシマシマでペインティングされ、透明のプラスチック・カバーが外側に施された、あの赤いボタンです。ドクロマークが貼ってあるかもしれませんし、「危険」と印字されているやもしれません。もし、心の中にも司令室があるなら、間違いなく勇気はこの赤いボタンなのです。カチッ。ドッカーン。


さて、悪い冗談はさておき、勇気は何でできているかというと、主要要素は「思念」「邪念」「諦念」の3つと睨んでおります。


「思念(しねん)」
どう生きるかに関して、譲れない思い。来たるべき未来を今に導こうとするエネルギー。勇気を支える大義のようなもの。


「邪念(じゃねん)」
どう周囲からの見られるのかといった、後の影響を計算する思い。来たるべき未来から、自分に利益を導こうとするエネルギー。勇気を増量する期待値のようなもの。


「諦念(ていねん)」
全ての問答を手放すような、思いを断ち切る思い。来るべき未来に自分を委ねるための脱力に使うエネルギー。緊張を伴う決断の場面の、思わず目を閉じてしまう一瞬とでも言いましょうか。それは、発火点にある勇気を解放するようなもの


たとえば、会社員のあなたが起業することを決める時を考えてみましょう。


どれほど緻密な計画を詰めようが、賢者に相談を尽くそうが、最後の覚悟がなければいつまでたっても前に進むことはありません。「やるべし!という思念」、「こうなったら凄いはず!という邪念」、「どうなろうとそれも良し!という諦念」が渾然一体となって立ち上がってこそ、勇気という赤いボタンが押される行為となるのです。


勇気の扱いが少々複雑なのは、この主たる3要素である「思念」「邪念」「諦念」が渾然一体になるかどうかが微妙なことです。どれかが突出している場合、ほぼほぼ勇気は、その余熱でミスリードを起こします。


「思念」が多すぎると・・・
大義が強すぎる勇気は暴力的になりやすく、過剰な正義感を生みます。会社員からの起業であれば、勇気の余熱で、「新しい会社で社会を変える」とか「新しいサービスが世界を救う」といったものを生みやすくなります。もちろん、間違いではありません。ただ、教条的な勢いは周囲に自分の行為への承認を無理強いしてしまったりするのです。狂信がなせる選択にも見えたりします。


「邪念」が多すぎると・・・・
適度な邪念は必要です。思念と諦念に比べるとエネルギー効率がいいからです。「よっし、俺が社長になったら・・・・だ!」なんていうのは決断としては不純ですが、この人間臭さが周囲からの親しみやすさを生みます。ただし、邪念が中心の勇気であれば、余熱が自己増殖を起こして、常にオッズの高い馬券に全財産を払うような振る舞いにつながります。かくして、「あの時の勇気は単なる蛮勇だった」ってなことになりがちです。


「諦念」が多すぎると・・・・
禅の世界でも大死一番(だいしいちばん)という熟語があります。死ぬ覚悟で何かをしてみることという意味です。さりながら、これが核となるような勇気には、その余熱(ニュアンスとしては余凍か?)が悲壮感を引き込んできます。平易な言い方にするとヤケクソ感です。自暴自棄と紙一重。


勇気という語彙は、かなり幼少期から使うようで、我が6歳の娘も「100%勇気〜」とか鼻歌っております。その割には、人生に関わるような出番は手薄かとも感じています。勇気。「人生いろいろ」の源泉であるなら、もう少し丁寧に扱ってもよいかなと。


たまには赤いボタンの透明カバーの塵や埃だけでも払ってみてはいかがでしょうか。

05月01日

拙著「マーケティングの基本」が増刷となりました。ありがとうございます!本書は2009年の初版から8年。今回で18刷となりました。6万部越え(電子書籍を除く)です。


多くのご購読者の方々に御礼申し上げます。


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相変わらず、経営コンサルタントや研修講師の方々にセミナー等でのサブテキストとしてご利用いただいているようです。プロフェッショナルからの推奨とは、光栄の極みです!


■ファシリテーション講座「ポストイットの総移動距離」を目安にする


グループワークをファシリテートする場合、ファシリテーターとして進行が上手くいっているかどうかを測る視点がいくつかあります。今回もその一つ。ポストイットの総移動距離でグループワークの有効度合いを測るというものです。


特に、参加人数が多く、複数のグループ(グループ数が3以上)でのファシリテーションなどでは、広い会議室で行われます。個別グループの討議内容を離れた場所から把握することは難しいので、こういった眺めているだけで測る基準があるというのは役に立つのではないでしょうか。


さて、まずはグループワークのホワイトボード上での大きな流れを説明しましょう。


大きくは「拡散ー収束」です。複数の視点で情報を集めて共有していく過程が拡散です。その後、グルーピングや樹形図などを活用してメタな視点で情報を圧縮していく過程が収束となります。ポストイット的な視点から見るなら、「拡散=ポストイット数が増加」「収束=ポストイット数が減少」が一般的です。


ただし、収束時は上位概念(抽象化された)による新たなフレーム枠としてのポストイットが登場するので、ホワイトボード的には、「討議に不要になったポストイットが増加」と言った方がただしいかもしれません。


この増減の風景は、グループワークの時間配分を見るような場面では有効です。「あ、あのグループはポストイット数が減少に転じたから、収束モードかな。時間的には早すぎるから、もう少し拡散に集中できるようにコメントしてこよう」なんていうのは離れた場所から眺めていても判断が効くのです。


しかし、「拡散ー収束」ができたとしても結果が望ましいものになるかどうかは別です。なぜなら、質的な状況はポストイットの増減ではなく、ポストイットの移動距離が多いかどうかが重要だからです。


では本題に入っていきましょう。


まず、前提から。さきほどの「拡散ー収束」のタイムテーブルですが、もっともキモなのは、拡散と収束の間にある潮目です。そして、この潮目に混沌(こんとん)、つまりカオスがあるかどうかがグループワークの質に大きく影響を及ぼすのです。


拡散→混沌が小さい→収束=あまり収穫のないグループワーク
(予定調和なセッション)


拡散→混沌が大きい→収束=収穫と言えるいい感じのグループワーク
(創発のあるセッション)


混沌とは、参加メンバーがどうしていいか分からない状態です。今までの判断基準ではにっちもさっちもな感覚になっています。この進退窮まった感こそが、混沌が打診してくる新しい視点でなのです。「混沌が小さいセッション」は予定調和的な内容になっている可能性が高いのです。どこかで見たいつもの結論ってやつです。


そこでです。この混沌の有無を、たとえ会議室の反対側にファシリテーターが座っていたとしても、視認できるというのが「ポストイットの総移動量」なのです。


硬く書くと・・・・


「ポストイット総移動量」
=「ホワイトボードに貼られた枚数」X「一枚ごとのホワイトボード内での移動距離」


・・・てな感じです。


右辺を見ていくと確かに、拡散期に出てきたポストイットの数も重要な要素になっています。量的な部分ですね。すると、もう一つの「一枚ごとの移動距離」っていうのは何か?となります。これは、一度貼られたポストイットが張り直されて別の場所に移動したことを意味します。こちらが質的な部分です。


「ねえ、このポストイットはこっちの方がいいなんじゃない?」とか「まて、このポストイットの集まりって、こっちの集まりの影響でできているよね?」なんていう会話の元にホワイトボードの中をあっちに行ったり、こっちに行ったりするわけです。


すなわち、初期の思考マップ(=はじめのホワイトボード)からの変容が表出(=貼り直されたホワイトボード)しているのです。ポストイットの移動は混沌における「もがき」であり、知的苦悶ですから、創発(既存の思考での対立や葛藤が否定されずに統合された状態)に近ずいている可能性が高い。


遠くから眺めていると、混沌と向き合っているグループの板からは「ずいぶん絵柄が変わってきたな」という印象を受けます。こういうとき、余計なアドバイスは無用のバイアスを生むだけですから、黙って暖かく見守ってあげるのがファシリテーターの慈愛なのです。


この反対に、いくら討議が盛り上がっているように見えても「最初に貼った姿から、まったく変わった様子もない」というケースでは、積極的に介入します。「このポストイットって、こっちでもいいんじゃないの?」な〜んて貼り直しを演じて見せ、「これで結論だ!」と決めにかかっているメンバーに「やり直し」という名の絶望感(ある時には怒りw)を提供するのが、これまたファシリテーターの慈愛なのです。


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