ヤスハラ・マーケティング・オフィスの近況

12月15日

12月15日ってことはあと半月で一年ですか・・・・。おはようございます、と同じレベルですけど、今年もあっという間ですなあ。


◾️マーケティングを仕事にするまでの経緯


ちょうど20年前、1997年。サラリーマンであったヤスハラが会社を辞めて独立しようと決心した年です。実際には、1999年末の独立、稼働が2000年なので、まだまだ行動にまでは時間差がありますが、腹の決まり具合ということでは、もっとも精神的な人生のターニングポイントでした。


で、独立はいいけど、どーしてマーケティング・コンサルタントになったのか? そもそもプロとしてのマーケティング全般をどうやって身につけたのかについて綴ってみようかと思います。


ヤスハラは日本の会社とアメリカの会社の合弁消費財企業(AGF)に就職してしまったので、その影響をモロに受けています。当時は、就活で外資を選ぶことは望ましくないこととされておりました。雇用が不安定だからという理由ね。今から思うと隔世の感があります。


結構、テキトーに会社選びをしていたので、一業種一社とか言って、縁があったらそこにいくだろうぐらいで選択したもののの一つでしたが、資本50%とはいえ、唯一の外資企業の候補です。


そこに入ると、必然的にアメリカ流のマーケティング・スタイルに晒されます。アメリカ流ってことはマーケティングの本家みたいなものなのでしょうけど、それまでは専攻も計量経済学だったし、「は? マーケ・・・テ・・・イング??」ってな読みさえままならないくらいの門外漢でしたからねえ。それはそれは「へー・・・」って感じでした。


さて、働いていると現場では結構しんどいことが連続しておきます。アメリカ本社から、次はこのフォーマットでマーケティング活動を管理するように!、といった資料が送られてくるわけです。ちゃんとフォーマットに記入して、上司の承認を受ける、おまけに、本社への提出も義務ずけられているという、それはそれはおごそかなものなのです。


これがですね、一回ならいいんですよ。むしろ、社内活動を共通のマーケティング視点で管理するのは合理的だと思いますし、戦略と戦術の違いについて自動的に分解される(STP系のブランクと4P系のブランクが明確に区分って当時は結構、最先端)ようになっているところなんかイケてる感じがしました。


しかし、世の中はそんな甘いだけの動きを良しとはしません。アメリカ流のマーケティングはアメリカ流の会社で仕切られています。なので、M&Aがしょっちゅう起きて、次はあの競合相手だった有名会社、こんどはヨーロッパの大手、ってなノリで合従連衡が日常的に多発します。


その度に、「今度のマーケティング・マネジメント手法はこれ!」と鳴り物入りで新しいプランニング・フォーマット群が送られてきます。リサーチ、コミュニケーション、ブランディング、などがもう毎回毎回、よく言えば未来志向、悪く言えば朝令暮改で指導が入るのでした。


これは、海の向こうから「あれだせ」「これだせ」「書き方が違ってる」「もっとガイドブックよく読め」とか、催促&命令がくることを意味しております。日々のの業務に忙殺されている極東の1支局程度の会社(それでも800人ぐらいいる大所帯)は仕事にならんのです。


ある日、マーケティング部門の人々が集まって「なんとかしたい」って話になって、ヤスハラも「そうですよ。なんとかしましょうよ」とか言ってたんですけど、「誰か海の向こうの窓口を一人にして、もっとマーケティング・マネジメントの効率を上げるのがよいのでは?」という結論に収束するんですな。そんでもって、全員が一人の顔を見るわけです。「え?、俺? 俺っすか!?」ってヤスハラが叫ぶんですわ。


ここからがヤスハラの実務家としてのスタートと申しても過言ではないところです。しょうがないから、やりましたよ。まずは散らかった用語の整理。まいったのは、自社の用語だけでなくグローバル系の競合消費財会社のガイドやマニュアルなんかも世界中から集まってくるので、見慣れない語彙の分類や類似用語との整合性もとることになるわけです。新手の名寄せですよ。


で、最終的には日本語にして、マーケティング現場が記入しても担当者ごとに内容がブレないようにします。そして、当然のことながら、これだって使い方のガイドが必要となります。新任が即、動けるようにね。かなり時間を費やし、やっとこさ完成したものを部数限定で印刷し、バインディングしてから関係部署や国内にある資本関係のある会社窓口の方々に配布しましたところ、かなりの反響があったのです。それも絶賛してくれる人が多数。


ふーむ、「これは需要があるな」、ヤスハラはここで商売を直感するわけです。社内向けににマーケティング・ガイドを作って、自社のオリジナルなマーケティング手法を定着させる、っていうのは世間的にアリではないか?という手応えです。


そんな原体験こそが、マーケティング・コンサルタントとして2000年に正式デビューする伏線なんですね。

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